ペンテコステ派

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ペンテコステ派とは、キリスト教プロテスタントの内、礼拝中などに「聖霊のバプテスマ」と称して異言(いげん)と呼ばれる意味不明の奇声を発したり、預言(神のお告げを語ること)などに重点を置く諸派である。

また、悪霊追い出しや、病気を治す等の奇跡を重んじている。あまりにも狂信的なため、プロテスタントの福音派社会派などにはペンテコステ派を異端視する者が多い。カトリック内にも、ペンテコステ派に似た活動をするグループが存在する。

聖書中の異言[編集]

イエス・キリストが復活、昇天した後、弟子たちが聖霊に満たされて他国の言葉で話しだしたことが聖書には書かれている。(使徒の働き2章)

狭い門から入りなさい[編集]

マタイの福音書7章13節~23節を見ると、イエスは、預言や悪霊追い出しや奇跡を行って大勢の信者を集めるのは不法行為であり、そのようなことをする者は自分とは無関係だということを述べている。

にせ預言[編集]

預言で語られた言葉が、聖書の教えに反する内容ならば、それは聖霊によるものではないと見なすべきである。二人の信徒の口から発せられた預言の内容が食い違う場合は、両方とも聖霊による預言のわけがない。片方は間違いなく悪霊による預言か自作自演の預言である。大抵は両方ともにせの預言である。

悪霊によるにせの預言や、自作自演のにせ預言もあり得る。預言の全てが聖霊の作用による真の預言ではないのである。

悪霊による異言を言っている個人、又はグループが存在するのは間違いのないことである。複数のペンテコステ教会の信徒たちが集まって大規模な集会を開くことがある。その場合は、悪霊による異言を言う者たちも混入しているはずである。一つの会場内で、聖霊が悪霊と一緒になって異言の集会を盛り上げたりするだろうか?両方とも悪霊によるにせ異言であれば一緒になって異言を言うことは可能であろう。

教会内で、悪霊によるにせの異言を言っている人の隣の席の人は聖霊による異言を言い、さらにその隣の人は悪霊による異言を言っているなどあり得ない光景である。

異言[編集]

ペンテコステ派の教会では、信徒や求道者などが異言を言うと聖霊のバプテスマを受けたと見なす。

だが、ある人は、誘われて行ったペンテコステ教会で「異言を言え」と言われ、仕方なく出鱈目に発声したところ褒められたという。このように異言を言う振りをすることも可能であり、周囲に合わせて、あるいは褒められたくて、または牧師から「信仰が足りない」と言われたくなくて、出鱈目に発声したり、知っている外国語で何か言うなどして、異言を言っている振りをしている者もいるはずである。

狂信的なペンテコステ教会と関わっていると異言の悪霊に取り付かれることがある。後で述べるが、この異言の悪霊に取り付かれると、にせの異言をすらすら言えるようになる。

病気の治癒[編集]

ペンテコステ系の集会ではよく見られる光景だが、大勢の人が見ている前で、牧師が病人のために祈ると、その病人は「治った」と宣言する。その結果「あの牧師に祈ってもらうと病気が治る」と評判になり、人が集まり、献金も集まることになる。

しかし、本当に病気が治ったとは限らない。病気が治っていないのに「治った」と宣言しているだけかも知れない。このようなときペンテコステ派の牧師は、病気が治っていなくても「治った」と宣言することを強要する傾向があるのだ。

病気ではない人に病人の振りをさせておいて、祈った直後に元気に動き回らせ、奇跡が起こったように見せかけるペテン師牧師もいると思われる。

また、牧師が大勢の見ている前で、車椅子に座った人のために祈り、その人が立ち上がったら奇跡のように見える。しかし健康な人を車椅子に座らせて連れてきたのかも知れない。足の悪い人を無理矢理立たせたのかも知れない。

ペンテコステ派の牧師は日曜の説教で「私は先週、何百キロも離れた遠い町に行ってきました。病気の人がいたので、その人のために祈ってあげたのです。すると、その人はたちまち治ってしまったのです」という話をすることが多い。何故か近隣の町で病気を治してきた話は少ない。

役者を集めて病気治しのショーを見せるのは大仕事である。手っ取り早く「あの牧師が祈れば病気が治ってしまう」と思わせるために嘘を言っているのである。

ペンテコステ派の牧師による、このような話は不自然なくらい具体的である場合が少なくない。「その病人は(有名な)○○という会社に勤めている人の奥さんのお兄さんです。一年と二ヶ月間、通院していて治らなかったのです」という具合にである。作り話を実話に見せ掛けようとしているのである。

何百キロも離れた遠い町には頻繁に行くが、隣町には滅多に行かないなんて、どういう生活をしているのか良く分からない。

異言に関する諸派の見解[編集]

「異言は全て聖霊のバプテスマである」というのはペンテコステ派の中で、かなり狂信的な者たちである。福音派の中でもペンテコステ派を容認する者の中には、これに近い考え方の者がいる。

普通の福音派は「聖霊による本物の異言も稀にあるかもしれないが、悪霊による異言や自作自演の異言が多い」と見なしているが、ペンテコステ派と敵対することを怖れて、上部だけペンテコステ派の者たちに調子を合わせている者が多い。

ペンテコステ派の中にも悪霊による異言があることを認める者がいるが、ペンテコステ派の者たちは「殆どの異言が聖霊によるものだ」と主張する。

福音派で、ペンテコステ派を容認する傾向の強い者は「殆どが聖霊による異言で、悪霊による異言や自作自演の異言はわずかである」と主張するが、ペンテコステ派を異端と見なす傾向の強い者は「聖霊による本物の異言はわずかで、殆どが悪霊による異言や自作自演の異言である」と主張する。

福音派の中でペンテコステ派を毛嫌いしている者は「異言は悪霊によるものと自作自演だけである」と見なす。

ペンテコステ派に危険を感じ、そこから離れる者たちがいる。福音派の牧師の中には、彼らが自分の牧会する教会に移って来ることさえ認めない者もいるが、もう少しマシな対応ができるはずである。

「異言は全て自作自演」と見なす。社会派の中でペンテコステ的になっている一部のグループを除けば、社会派は、普通このような立場である。

補足[編集]

諸派の見解は明確に分類できるものではないが、おおよそ上のようになると思われる。社会派や福音派の中には、ペンテコステ関係者を精神異常者と見なす者も少なくない。

仮に、聖霊による本物の異言を言う教会があっても、そこの信徒たちが「異言は全て聖霊のバプテスマだ」と考えて、悪霊によるにせ異言を言う他のペンテコステ関係者たちと無警戒に交わっていたら、異言の悪霊に取り付かれるのは時間の問題である。

悪霊の異言[編集]

キリスト教にはイエスの時代から行われている悪霊追い出しというものがある。悪霊追い出しの経験を積んだ牧師によると「異言」と名乗る悪霊を追い出すことが、しばしばあるという。

特に、ペンテコステ派と関わったことがある人に取り付いている悪霊たちを一つ一つ追い出していくと、その中には、たいてい「異言」と名乗る悪霊がおり、それも追い出すことになるという。このことから、ペンテコステ教会における異言の殆どは聖霊によるものなどではなく、悪霊によるものであることがわかる。

異言の悪霊を追い出すと、悪霊追い出しの対象となっていた者は異言を言うことができなくなる。しかし、異言を言うことをのぞんでいると異言の悪霊は戻ってきてしまうという。

ペンテコステ教会の信徒には、うつ病、統合失調症、アルコール依存などの精神病を患う者や、自殺(未遂を含む)をする者が非常に多い。

また、元々精神病を患っていた者がペンテコステ教会と関わると、一時的に良くなって、そのために深入りし、後にもっと悪くなる場合が多い。

一時的に良くなる場合があるのは、ペンテコステ教会でも悪霊追い出しをしており、それもある程度は効果があるからである。特に悪霊追い出しのようなことをしていない場合でも、賛美歌を唄ったり聖書の朗読をするだけでも、多少は悪霊を追い出したり、悪霊の活動を弱める効果がある。

しかし、すぐに異言の悪霊に取り付かれることになる。しかも、ペンテコステ教会では狂信的なことばかりしているので、一旦、出て行った悪霊たちも仲間の悪霊たちをを引き連れて戻って来て、共に住み着くことになる。更に、狂信的なことを続けていれば次々に悪霊たちが取り付くことになる。その結果、前よりももっと悪くなるのである。

カトリック系の異言[編集]

カトリック内部にも異言を言うグループが存在する。プロテスタントから見たら「異言を言うカトリック教徒は聖霊のバプテスマを受けたのだから、偶像礼拝などの罪を犯さなくなるはずだ」と想像しがちである。また、カトリック系の異言を言うグループに属する者も、プロテスタントとの交流の場などでは、便宜的に偶像礼拝に否定的な態度をとる場合が多い。

だが彼らは実際には、異言を言わない普通のカトリック教徒以上にマリア崇拝や聖人崇拝にのめり込んでいくのである。マリヤ像の前で跪いて異言を言ったり、マリヤ像の前で手をあげて異言を言っているというのが実情である。

また、マリヤ像やマリヤ崇拝に使う小物などを作って販売を始める者までいる。

これらを見ても、異言の全てが聖霊のバプテスマというわけではなく、異言の多くは悪霊の作用によるものだということがわかる。

実在する外国語で語られる異言[編集]

異言の多くは、意味のない発声であるが、まれに外国語である場合がある。言っている本人が学んだこともない外国語で異言が語られる場合もある。

異言が実在する外国語であっても、それを理解できる者がおらず「実在する外国語である」と誰も気付かない場合も少なくないはずだが、その言語に詳しい者がその場にいたり、録音したものを後で聴いた場合などに、異言が実在する外国語で語られていたということが発覚することになる。

ここで「本人の学んだことのない外国語だから聖霊のバプテスマに違いない」と断定するのは早計である。その外国語の異言の内容は、たいてい神を冒涜する言葉や、卑猥な(性器や性行為に関する)言葉であり、語っているのは悪霊なのである。

なぜ悪霊が外国語を話せるのか?[編集]

悪霊は何千年も前から存在していた。その間、国々をさ迷い、様々な偶像に住み着いたり、何人もの人に取り付いたりしながら悪事を働いてきたわけである。

長期間、外国人に取り付いていた悪霊ならば、その国の言語を知っているのが当然である。

国境や国籍に縛られているのは人間だけで、悪霊にはそんなものは関係ない。渡り鳥や海の魚のように、国境など無視して移動できるのである。

外国から来た(あるいは外国に行った)ばかりの悪霊は、人の心の中に「罪を犯したい」という動物的な衝動を起こすくらいは出来ても、言葉で人を惑わすことは困難と思われる。 特定の国の人を思い通りに惑わすには、その国の言語を身に付ける必要があり、悪霊でも外国語を身に付けるには少々時間や努力が必要に違いない。それは悪霊たちにとって少々面倒臭いことであろう。それ故、言語が違う国にはあまり移動しないと思われる。何種類もの言語があることによって、悪霊たちの行動範囲が狭められていると考えられる。

国が違っても言語が同じ英米間などを行き来することは悪霊も躊躇することは少ないはずである。それは言語や文化が似通った南欧諸国などでも同様と思われる。

様々な国の人に取り付いたことがあり、何ヵ国語も理解できる悪霊もいると思われる。外国語を身に付ける能力は、個々の悪霊が持っている性質や、天使としての階位、力量などによって様々であろう。

悪霊は特定の国や地域に留まろうとする傾向があると思われるが、外国に移動することをあまり厭わない悪霊もいると思われる。それらは身に付けている言語の数が違ってくるはずである。

余談だが、前世の記憶のようなことを語る人がテレビに出ることがある。ヤラセでないならば、その人に取り付いている悪霊が、以前、別の人に取り付いていたときの記憶を語っているのである。前世の記憶のようなことを外国語で語る場合もある。その人は前世が外国人だったのではなく、以前、外国人に取り付いていた悪霊が、外国人に取り付いていたときの記憶を外国語で語っているのである。

異言の解き明かし[編集]

異言の解き明かしと称して、異言を言っている者のそばに立ち、意味不明の発声である異言の意味を説明する者が時々いる。その異言が外国語であり、その外国語を知っている者が通訳をするというならばともかく、ほとんどの異言は、どの国の言語かわからない言葉や、外国語でもない無意味な発声なのである。それをどうやって通訳するというのだろうか?

キリスト教界には「解き明かしがあれば本物の異言だ」という迷信がはびこっている。それは大間違いである。

これは福音派のアメリカ人宣教師から聞いたことなのだが、ある教会に、異言を言う者と異言の解き明かしをする者とがいて、異言を言う者は同じ発音を繰り返していただけなのに、解き明かしをする者は次々に違う説明を付けていたことがあったそうである。

異言の解き明かしなど、幾らでも出任せが言えるのである。異言の解き明かしも疑う必要があるのである。

当たり前のことだが、解き明かし役を連れて来ても、悪霊による異言が聖霊による異言に変わることはない。思考停止しないで考えて欲しい。

良くある間違い[編集]

有名な牧師の教会の異言だから聖霊による異言だ[編集]

決め付けるのは早計である。有名な牧師でも胡散臭い牧師が少なくない。

大きな教会の異言でも、無名の教会の異言でも、聖書を良く学んでいる教会の異言でも、神に用いられているように見える教会の異言でも、プロテスタントの異言でも、カトリックの異言でも、メシアニックジュダイズムの異言であっても全て疑うべきである。異言の殆ど全てが、聖霊に成り済ました悪霊による偽の異言なのである。

異言を言う人は聖霊に満たされている[編集]

否、異言の悪霊に取り付かれているだけの可能性が高い。

ペンテコステ諸派を全部まとめて「聖霊派」と呼ぶ[編集]

悪霊による異言や自作自演の異言を言う者たちのことを「聖霊派」と呼ぶのは不適切である。「悪霊派」は言い過ぎかも知れないが「異言派」くらいが妥当と思われる。

「異言は悪霊によるものだ」と言うと聖霊を冒涜することになるのか?[編集]

聖霊のことを「悪霊」と言ったら冒涜だが、悪霊による異言を「悪霊による異言だ」と言っても聖霊を冒涜することになるわけがない。

疑問点[編集]

ペンテコステ派の者たちは自分たちが言っている異言が悪霊によるものだと分からないのだろうか?[編集]

薄々気付いている者が少なくないに違いない。しかし彼らは、悪霊による異言を聖霊のバプテスマだと信じたいのである。

福音派よりもペンテコステ派の方が伝道に熱心だが[編集]

悪魔は、ペンテコステ派の信徒が増えることをあまり怖れていない。だからペンテコステ派の伝道をあまり邪魔しないのであろう。

ペンテコステ派でも多少は正しいことを主張しているようだが[編集]

多少、正しいことを主張していなければ、悪いグループを良いグループに見せかけることはできない。だから悪霊たちは、ペンテコステ関係者が多少、正しい言動をしていても、あまり妨害しないのであろう。その結果、ペンテコステ関係者が福音派よりも正しく見えてしまうことがあるのである。

ペンテコステ関係者が多少は神に用いられていることに関するミュレル師の見解[編集]

アメリカのコンラッド・ミュレル牧師は悪霊追い出しの経験が豊富で、多数のペンテコステ関係者たちから異言の悪霊を追い出してきた。

彼の見解はペンテコステ関係者をエルサレムの神殿にたとえて、神殿の至聖所には神がいて外庭には異邦人がいる状態としている。ペンテコステ関係者はあるときは神に用いられ、あるときは外庭の悪霊に動かされているとしている。

至聖所にまで悪霊が入り込んでいるようなペンテコステ関係者もいると付け加えておく。

異言の悪霊に取り付かれても異言を言うだけならば他には何の害もないのではないだろうか?[編集]

異言の悪霊でも異言を言わせるだけのものと、異言を言わせる以外の悪事を働くものとがいると思われる。

悪霊は仲間の悪霊を呼び寄せる場合があり、異言を言わせるだけの悪霊が、他の性質を持った悪霊たちを呼び寄せ、呼び寄せられた悪霊たちも取り付くことになれば、それらの悪霊によって様々な害が生じることになる。