フリッツ・クライスラー

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フリッツ・クライスラー(Fritz Kreisler, 1875年2月2日 - 1962年1月29日)は、オーストリア出身の作曲家ヴァイオリン奏者。[1][2]

略歴[編集]

ウィーンでフリードリヒ・クライスラー(Friedrich Kreisler)として生まれる。幼少期より、ポーランド出身の医者を本業とし、アマチュアのヴァイオリン弾きだった父親の手解きでヴァイオリンを始め、リング劇場のコンサートマスターだったジャック・アウバーのレッスンも受けた。1882年にウィーン音楽院への入学が許可され、ヨーゼフ・ヘルメスベルガー2世にヴァイオリン、アントン・ブルックナーに音楽理論をそれぞれ学んだ。10歳にして音楽院から金メダルを贈られ、パリ音楽院に留学してジョゼフ・ランベール・マサールにヴァイオリン、レオ・ドリーブに作曲を学んだ。1887年に音楽院を卒業し、その翌年から1889年までピアノ奏者のモーリッツ・ローゼンタールのパートナーとして、アメリカに演奏旅行に出た。帰国後は、両親の意向により、医学を学び、軍務にも就いた[3]が、1896年に演奏活動を再開した。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の入団試験も受けたことがあるが、初見演奏の未熟を理由にアルノルト・ロゼから入団を断られている[4]。1899年にはアルトゥル・ニキシュの指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会でフェリックス・メンデルスゾーンのホ短調のヴァイオリン協奏曲を弾き、ヴァイオリンの名手として評価されるようになった。1900年からアメリカに演奏旅行に出たが、この旅の途中でアメリカ人のハリエット・リースと出会い、1902年に結婚。以後、リースがマネージャーとしてクライスラーの私生活から演奏会への出演交渉までを取り仕切るようになった[5]。1910年にはエドワード・エルガーのヴァイオリン協奏曲を初演。第二次世界大戦中は軍務に就いたが、直ぐに負傷して名誉除隊となった。第二次世界大戦時には、フランス経由で1939年にアメリカに亡命し、1943年に市民権を取得。1941年には交通事故に遭って視力・聴力の低下に悩まされるようになり、1950年頃までに演奏活動から撤退している。

作曲家としては、1905年頃からレパートリー拡大のために、自作を他人の作と偽って発表していた。これらの作品について、1935年に、本当の作者が自分であることを公表して、イギリスの音楽評論家のアーネスト・ニューマンと論争を繰り広げている。

ニューヨークにて没。

脚注[編集]

  1. アーカイブ 2021年3月5日 - ウェイバックマシン
  2. The Search for the Minor Composer: The Case of Fritz Kreisler: Music Reference Services Quarterly: Vol 5, No 2”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年8月17日確認。
  3. ヴァイオリンの旧約聖書!没後55年フリッツ・クライスラー(1875~1962)の芸術(21枚組)”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日確認。
  4. Arnold Rosé: First violin of Vienna”. 2021年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月6日確認。
  5. アーカイブ 2020年11月25日 - ウェイバックマシン