ピョートル2世 (ロシア皇帝)

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ピョートル2世1715年10月12日 - 1730年1月18日、在位:1727年5月6日 - 1730年1月18日[1])は、ロシアを支配したロマノフ朝の第7代君主皇帝としては第3代。

祖父は第5代君主で初代皇帝(大帝)のピョートル1世。父はアレクセイ・ペトロヴィチ・ロマノフ。母はシャルロッテ・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク=ヴォルフェンビュッテル。在位3年で15歳の若さで崩御し、その崩御によりロマノフ朝の直系の男系血族は断絶した。

生涯[編集]

両親の死[編集]

1715年にサンクトペテルブルクで誕生した[1]ピョートルは幼少期から肉親の縁が薄かった。まず母親はピョートルを生んで間もなくこの世を去った[2]。父親はピョートル1世と大変不仲で、遂にはロシアから逃亡したためピョートル1世により連れ戻されて帝位継承権を放棄させられた上、1718年6月15日にピョートル1世による殺害とも言われる不審死を遂げた。このためピョートルはわずか2歳半で両親を失うことになった。

帝位継承へ[編集]

1725年1月にピョートル1世が崩御すると、ロシアでは後継者問題が発生する。この時点でピョートル1世の子供は不審死を遂げたアレクセイをはじめ、男子は全て幼くして病死しており女子しか残っていなかった。そのため宮廷ではピョートル1世の皇后であったエカチェリーナと、孫に当たるピョートルがそれぞれ後継者候補に推されるようになった。しかしエカチェリーナには近衛連隊の隊長など軍隊が支持していたため、大貴族しか支持が無かったピョートルは強大な武力を手に入れたエカチェリーナに敗れて第2代の帝位はエカチェリーナにエカチェリーナ1世として奪われてしまった。さらにエカチェリーナ1世により祖母のエヴドキヤ・ロプーヒナをシュリッセリブルク要塞の独房に移されるなど徹底した迫害を受けた。

しかしエカチェリーナ1世は在位わずか2年で1727年に病に倒れた[1]。エカチェリーナ1世はピョートル1世と自分の間に生まれた娘のエリザヴェータを後継者にしようと考えていたが、当時ロシアの実権を掌握していたアレクサンドル・メーンシコフの反対により断念せざるを得なくなり、後継者はピョートルが選ばれ、この際にアレクサンドル・メーンシコフの娘のマリヤとピョートルの結婚も決められた[1]。1727年5月6日にエカチェリーナ1世が崩御するとピョートルがピョートル2世として即位し、第3代皇帝となった[1]

治世[編集]

11歳の少年が即位すると行なったことはエカチェリーナ1世により投獄されていた祖母の釈放であった[1]。国政に関しては先帝時代からのアレクサンドル・メーンシコフが掌握していたが、マリヤとの婚約でメーンシコフに反感を抱いていた貴族の反発がさらに強まり、元々ピョートル2世もマリヤとの結婚に消極的だったため、同年のうちにメーンシコフは失脚してシベリアに流罪にされた[1][2]。代わって実権を掌握したのがヴァシーリー・ドルゴルーキーで、ピョートル2世は彼の従姪であるエカチェリーナ・ドルゴルーカヤと婚約することになった[2]。ピョートル2世の時代はモスクワに再び遷都が行なわれ、海軍に費やされていた費用の削減などが実施されるなど保守的な政治が促進された[2]

ピョートル2世は10代前半の少年であり、元々人と会うことが余り好きではなく滅多に人前に現れることも無かったという[1]。興味を示したのは狩猟と玉突きとダンスであり[2]、ヴァシーリー・ドルゴルーキーは皇帝を政治から遠ざけるために興味以外のあらゆることから遠ざけた[1]。狩猟に明け暮れていたせいか15歳の少年にしては長身で堂々たる体格をしており、身体もよく日に焼けていたという[1]。ただ、容貌は美男子だったが表情が暗く若さと端正さの割には人を惹きつける魅力も感じの良さも無かったという[1]

早世[編集]

1730年1月18日、ピョートル2世は自身の結婚式の日に天然痘に冒されてモスクワで崩御した[3][1]。15歳の若さだった。当然子供は無く後継者の指名も無かったという[3]

このため宮廷闘争が起こり、最高枢密院により後継者にはピョートル1世の系統ではないイヴァン5世の娘のアンナが擁立される事になった[3]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h i j k l 『ロシア皇帝歴代誌』142頁
  2. a b c d e 『ロシア皇帝歴代誌』143頁
  3. a b c 『ロシア皇帝歴代誌』144頁

参考文献[編集]