NINTENDO64

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本体

NINTENDO64(ニンテンドウろくじゅうよん[1])は、任天堂が開発して1996年に発売した家庭用ゲーム機

概要[編集]

名前の通りに64ビットCPUを搭載し、任天堂では初となる3Dに対応したハードとなった。略称は「64(ロクヨン)」、「N64」など。1993年の開発発表時のコードネームは「プロジェクト・リアリティ」、正式名が決定する以前の海外名称は「ウルトラ64」(日本国内では当時名称未発表)、ユーザー間の通称は「ウルトラファミコン」だった。

シリコングラフィクス(SGI)との当時の企画内容には「子供たちにOnyxを」とある。「SGI Onyx」は当時のスーパーコンピュータ並みの性能を誇ったSGIのグラフィックスワークステーションで、当時の価格は数千万円から1億円ほどで、とても一般家庭の子供には手の届くものではない。任天堂とSGIは性能を絞り込み、コスト削減を図って、小売価格を25,000円に抑えた。発売前の一時期には「25,000円のスーパーコンピュータ」とも言われた。

また、コントローラーにある3Dスティック(サンディスティック)は、通常の十字キーなどと違い、ゲームを直感的に操作するために作られたものの、マリオパーティなどのスティックを多用するゲームがあったため、使い過ぎで自動的に初期位置に戻らなかったり、プラスチックでできているため削れて滑る、誤った持ち方で使うと指の皮が剥けるなどの問題があった。これらの問題はNINTENDO GAMECUBEでは対策が行われている。

高性能を目指した結果[編集]

しかし、高性能を目指した結果、開発が容易ではなくなり、発売中止の作品も多く見られた。64ソフトには良作が多い反面、開発の難しさが浮き彫りとなっていた。また、マリオポケモンスタジアム等の幼児向けの作品で大ヒットしたが、対戦格闘ゲームは数本しか発売されておらず、アーケードゲーム(ゲームセンター)で発売された対戦格闘ゲーム(2DだとストシリーズやKOFシリーズ)(3Dだとバーチャシリーズや鉄拳シリーズ)の移植がまったく発売されなかった機種であり、対戦格闘ゲームファンにはまったく受け入れられなかった機種である。

その後、インターネットを採用したディスクシステムを搭載したが、思うようにはいかず、ごくわずかの生産に留まった。

販売出遅れと少数精鋭主義[編集]

当初は次世代ゲーム機戦争の本命として期待されており、「ゲームが変わる。64が変える。」のキャッチコピーとともに登場した。

しかし、最終的なハード出荷台数は同世代の「プレイステーション」に比べ少なく、国内では「セガサターン」にさえ及ばなかった。その原因は多数指摘されているが、最大の要因は参入メーカーの少なさにあった。メーカー不足のみならず、度重なる延期による発売の遅延(PSとSSから2年近くも遅れた)と情報の露出不足(ハードの正式名称も発表されなかった)により、ソフトメーカーとユーザーから信頼を失い、登場時にはプレイステーションが市場を占拠し始めていたこと、後述のようにゲームの開発が難しく発売後もサードパーティがあまり参加しなかったことなどが挙げられる。

開発が困難とされた理由[編集]

開発が困難とされた理由としては、ハード性能は当時最高級だったが、その性能を引き出すために「ソフトウェア(「RCP」のマイクロコード)で工夫する」設計、つまりソフトウェア面の開発に負担をかける構造となっていたことが大きい。しかも、開発用のライブラリの充実に時間を要し、任天堂自身がライブラリ開発やサードパーティに配布することに力を注がなかったため、サードパーティの開発環境のハードルがさらに高くなってしまった。

また、ソフトの供給媒体にデータ量に対する単価が非常に高かったロムカセットを採用したことから、データ量単価の安いCD-ROMを採用したゲーム機のようにムービーシーンを多用するなどといった演出が難しく、ストーリーやキャラクターなどの演出に凝るよりも、まずゲームとしての面白さを追求した作品が強く求められた。

少数精鋭主義[編集]

スーパーファミコン」までの経験から、質の悪いソフトによる「アタリショック」のような事態を回避するため、任天堂は「少数精鋭主義」を提唱。開発力のあるサードパーティを厳選するための方針だった。しかし、重厚長大なソフト制作へと傾倒していたスーパーファミコン時代のサードパーティは、大容量データを扱えて開発も比較的容易なプレイステーションやセガサターンへと流れてしまい、結局は単なる「少数」に終わってしまった。

また、度重なるハード発売日の延期に、ファイナルファンタジーシリーズドラゴンクエストシリーズといった、ファミリーコンピュータやスーパーファミコンの人気タイトルの続編の多くが、プレイステーションなど他のハードで発売するようになってしまったことも大きな痛手となった。そのため、ソフト発売本数でプレイステーションに水を開けられる結果となった。

さらには、スーパーファミコン全盛期に任天堂が行ったサードパーティに対する高圧的な態度・要求は、多くのメーカーや関係者に任天堂に対する不信感を抱かせたが、任天堂側の唱えた「少数精鋭主義」という言葉と手法はこのイメージの払拭の失敗にも繋がった。そのため、すでにプレイステーションやセガサターンのための開発環境を整え、リソースを投入していたサードパーティを改めて本気で振り向かせることができず、そもそもソフトの企画がゲーム雑誌向けに出されたのみで実際には開発の着手すらされなかったソフトが少なくなかったことも不振の要因となった。

他のハードとの比較[編集]

なお、同時期はプレイステーションやセガサターンとのマルチプラットフォーム作品が度々登場していた。しかし、NINTENDO64はCD-ROM不採用のハードウェアであることや、コントローラの形状といった操作体系など、他のハードと異なる面が多かったため、マルチプラットフォーム化された作品が非常に少なく、『バイオハザード』シリーズや『ロックマンDASH』など例外もある、他のゲーム機で大ヒットを記録する対戦型格闘ゲームなどは後期になっても少数派だった。

総評[編集]

これらのことから、発売初期からすでに慢性的なソフト不足に見舞われた。特にハード発売より約3ヶ月は、サードパーティはおろかハードメーカーである任天堂からも新作ゲームが1本も発売されないという深刻なものだった。任天堂は1996年内にセカンドパーティ製のものも含め、16本の自社ソフトを発売する計画だったが、開発の遅延により実際は4本しか発売できなかった。後に発売にこぎつけたものすら半分ほどで、残りのものは発売中止となった。ソフトのラインナップもアクションゲームスポーツゲームが中心で、日本市場で人気のあるRPGが3年目まで発売されないなど偏りを見せ、多くのユーザーの心を掴むことができなかった。

かくして、このハードで任天堂は据え置きゲーム機のトップシェアを失い、その後2世代にわたりその座を株式会社ソニー・コンピュータエンタテインメントに明け渡すことになった。この顛末は、後継機である「ニンテンドーゲームキューブ」の設計思想にも影響を与えた。

北米市場[編集]

このように日本市場では苦戦を強いられたが、北米市場においては2063万台を売り上げ、Super Nintendo Entertainment System(海外版スーパーファミコン)並の市場を築くことに成功した。これについて宮本茂は「NINTENDO64はね、とりあえず日本ではすごくトーンが下がっているし、ヨーロッパもけっこう厳しいですし、不安な状態に見えるんですけれども、アメリカの勢いのお陰で、ビジネスとしては完全に成り立った[2]」と述べている。新作ソフトの発売も、日本国内においては2001年12月発売の『ボンバーマン64』が最後だったが、北米では2003年夏まで新作ソフトが発売され続けた。最後のNINTENDO64用新作タイトルとなった『トニーホークプロスケーター3』が「PlayStation 2」、「ニンテンドーゲームキューブ」、「Xbox」など、次世代ゲーム機とのマルチプラットフォームで展開されたことは、北米での成功を表している。

ビット数について[編集]

このハードに搭載されているCPUビット数は64ビットだが、32ビットにすることも可能であり、ほとんどのソフトが32ビットモードだった。32ビットCPUは最大で4GBまでメモリを搭載できるため、32ビットと64ビットの違いは全くと言っていいほど無い。64の開発責任者である竹田玄洋は「処理速度が速ければ32ビットでもよかったんです。R4300は内部クロック90MHz以上で動いていますが、R3000(PSに搭載されている32ビットCPU)ではなかなかそうはいかないですから」という発言をしている。そのため、『スーパーマリオ64』をニンテンドーDSに移植した『スーパーマリオ64DS』のように、仕様を落とさず新機能を搭載して他機種に移植されたソフトもある。

脚注[編集]

  1. ニンテンドゲームキューブニンテンドDSなどと違い、NINTENDO64は「ニンテンド64」が公式なカタカナ表記である(同時期のサービス「ニンテンドパワー」も同様)。
  2. 武田亨『It's The Nintendo』

関連項目[編集]