ダグ・ハマーショルド

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ダグ・ハマーショルド(ダーグ=ヤルマル=アグネ=カール・ハンマルフェルド、Dag Hjalmar Agne Carl Hammarskjöld、1905年7月29日 - 1961年9月18日)は、スウェーデン王国の外交官。第二代国際連合事務総長を務めた。

国際連合事務総長就任まで[編集]

1905年7月29日にスウェーデンのイェンシェーピンに生まれる。父親はヤルマル・ハマーショルド(スウェーデンの元首相)、母親はアグネス・アルムクヴィスト。四男として生まれた。

父親が知事を務めたウップランド地方のウプサラで育ち、ウプサラ大学に進学。フランス文学史や社会哲学・政治経済を専攻して文学士号を取得。経済学修士号も取得して、1930年には法学士となった。

1930年から34年まで失業問題委員会の秘書官をする傍ら、1933年にストックホルム大学で博士号を取得して助教授となる。スウェーデン国立銀行の秘書官を務めた後、1936年に財務事務次官に就任。1941年から48年まで国立銀行取締役会会長も兼務しており、財務事務次官と会長を兼任した初めての人物となった。

1945年に内閣府顧問に任命されると、第二次世界大戦の後処理を行った。1947年に外務省に入省して外務次官として活動。1949年に外務省の事務局長となり、1951年には無任所大臣として入閣。経済問題について関わった。1951年の国連総会のスウェーデン代表団団長、1952年の国連総会のスウェーデン代表団団長代理をそれぞれ務めている。1954年12月20日、父親が死去したことでスウェーデン・アカデミーの会員となった。

国際連合事務総長[編集]

1953年に初代国際連合事務総長トリグブ・リーが辞任したことを受けて、国際連合安全保障理事会が全会一致でハマーショルドを後任に推薦。1953年4月7日の国連総会でも全会一致で選出される。

1954年に国連総会の要請を受けて、朝鮮戦争中華人民共和国の捕虜になった15人のアメリカ人パイロットの釈放に成功。1956年に安全保障理事会の要請を受けて、イスラエル国とアラブ諸国の緊張を緩和するために交渉して、停戦を守ることを約束させた。第二次中東戦争が起きたときには、第一次国際連合緊急軍を組織するなどして停戦に導いた。

西欧植民地主義者と結託していると主張するソ連は三人の事務総長によるトロイカ制を主張して辞職勧告や免職要求をするも、1957年9月に再任した後も職務を続けた。

1960年からコンゴ民主共和国の内乱コンゴ動乱の調停のために、ジョセフ・カサブブ大統領とパトリス・ルムンバ首相の要請を受けて、支援のための国連軍を派遣するように安全保障理事会に要請。このとき、初めて憲章第99条に基づいて招集した。

1961年9月17日夜、コンゴ動乱を解決するために飛行機で向かう最中に飛行機が墜落。ハマーショルドは事故死してしまう。

死後[編集]

1961年にノーベル平和賞が送られている。死後にノーベル平和賞を受賞した唯一の人物となっている。

参考文献[編集]

  • 著者:明石康『国際連合 軌跡と展望』(岩波新書、2006年11月21日初版発行)、ISBN 4-00-431052-0

外部リンク[編集]