ジョセフ・ディヴァーコ
ジョセフ・ヴィンセント・ディヴァーコ(英語:Joseph Vincent DiVarco[1]、1911年7月27日[2] - 1986年1月5日[1])は、アメリカ合衆国のマフィア。シカゴ・アウトフィットのソルジャーで[1]、アウトフィットの上位メンバーの1人だったとされる[3]。シーザー・ディヴァーコ(Caesar DiVarco)、ジョセフ・"リトル・シーザー"・ディヴァーコ(Joseph "Little Caesar" DiVarco)とも[4]。日本語でジョセフ・ディヴァルコ[5]、ジョゼフ・ディヴァルコとも表記される[6]。
経歴[編集]
1937年に逮捕歴があるとされる[3]。1967年にシカゴ犯罪調査委員会が公表したマフィアの合法的なビジネスのリストによると、小間物店の共同経営者であった[7]。1977年のシカゴ・トリビューン紙によると、シカゴ・アウトフィットのノース・サイド・クルーのボスであるヴィンセント・ソラノの手下の1人であった[8]。ノース・サイド・クルーのアンダーボスとして[5]、違法賭博、高利貸し、恐喝、ショバ代の徴収、アダルト書店の運営などを行っていた[4]。長年にわたってラッシュ・ストリートのナイトクラブで指揮をとっていたといわれている[3]。
1983年にソラノからケン・エトーの殺害を命じられ、ディヴァーコとジョー・アーノルドがエトーを誘い出し、ジャスパー・カンピーシとジョン・ガトゥーソがエトーを銃撃したが、エトー殺害に失敗したため、ディヴァーコは失脚し、2人のヒットマンは殺害された[9][10]。アウトフィットで賭博を仕切っていたエトーは稼ぎの30~60%を40年以上にわたってディヴァーコに支払っていた。エトーは暗殺未遂後に情報提供者になり、ディヴァーコとの関係やディヴァーコのシンジケートにおける地位などを証言した[5]。
1985年1月にスポーツ賭博の運営によりRICO法違反で有罪判決を受け[4][3]、同年3月に10年の禁固刑と裁判経費6万ドルの支払いを言い渡された。大統領犯罪組織委員会の前で証言を求める召喚状が出されたため[5][3]、1985年12月にカリフォルニアの刑務所からワシントンD.C.に移送されたが、1986年1月5日にワシントンD.C.の病院で心停止で死亡した。74歳だった[3]。
出典[編集]
- ↑ a b c Updated Federal Bureau of Investigation (FBI) Record(PDF) governmentattic.org
- ↑ 『Organized Criminal Activities: South Florida and U.S. Penitentiary, Atlanta, Ga』 U.S. Government Printing Office、1978年。
- ↑ a b c d e f John O`Brien「JOSEPH DIVARCO, 74, CHICAGO MOB LEADER」Chicago Tribune、1986年1月7日
- ↑ a b c エレイン・C・スミス著、山西三穂子訳『TOKYO JOE――マフィアを売った男』講談社、2008年、328頁
- ↑ a b c d 『TOKYO JOE――マフィアを売った男』308-309頁
- ↑ 村上早人『モンタナ・ジョー――マフィアのドンになった日本人』JICC出版局、1993年
- ↑ 「Hood's Who」TIME、1967年10月3日
- ↑ 『TOKYO JOE――マフィアを売った男』82頁
- ↑ 『TOKYO JOE――マフィアを売った男』224、328頁
- ↑ Steve Warmbir「Mobster 'Toyko Joe' died in Georgia in '04: Ken Eto survived a 1983」Chicago Sun-Times、2006年8月8日