ジネット・ヌヴー
ジネット・ヌヴー(Ginette Neveu, 1919年8月11日[1] - 1949年10月28日[2])は、フランスのヴァイオリン奏者。[3][4][5]。
パリの出身。ヴァイオリン教師だった母親とリヌ・タリュエルの手解きで5歳の頃からヴァイオリンを始め[6]、7歳の時にガブリエル・ピエルネの指揮するコンセール・コロンヌの演奏会でマックス・ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番を演奏するほどの早熟ぶりを見せた。11歳でパリ音楽院に入学してジュール・ブーシュリのクラスで学んだが、凡そ8ヵ月でプルミエ・プリを得て卒業した。また、ブーシュリに学ぶ前からジョルジェ・エネスクのレッスンも受けていた。1931年にはウィーンで開催された国際ヴァイオリン・コンクールで4位入賞するが、この時、審査員の一人であったカール・フレッシュに入門を勧められている。しかし、コンクール出場のための旅費で素寒貧になったヌヴー家は、フレッシュの求めにすぐに応じることは出来ず[7]、1933年にベルリンのフレッシュの門を叩いた。1935年にワルシャワのヴィエニャフスキ国際ヴァイオリン・コンクールで優勝[8]。1936年にはハンブルクに於いてオイゲン・ヨッフムの指揮下でヨハネス・ブラームスのヴァイオリン協奏曲を演奏して評判を取り、翌年にはアメリカやロシアに演奏旅行に出て名声を確立した[9]。第二次世界大戦中はドイツからの客演の要請を断りつつフランス本国に残り、稀にコンサートを開く程度に活動を抑えた。1942年からは兄ジャンとデュオを組むようになった。戦後は国内外で演奏活動を行い、八面六臂の活躍を見せた。
アメリカへの演奏旅行に出かけるため、1949年10月27日にパリ=オルリー空港からロッキード製コンステレーション機に搭乗したが、翌日未明、そのコンステレーション機がポルトガル領サンミゲル島のバラ山に激突する事故に巻き込まれる形で死去[10]。
脚注[編集]
- ↑ アーカイブ 2021年1月20日 - ウェイバックマシン
- ↑ “Untitled”. 2021年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日確認。
- ↑ “La légende Ginette Neveu”. france.musique. (2019年7月7日). オリジナルの2021年4月29日時点によるアーカイブ。 2021年4月29日閲覧。
- ↑ “Paris 1900 - capitale du violon”. france.musique. (2019年7月29日). オリジナルの2021年4月29日時点によるアーカイブ。 2021年4月29日閲覧。
- ↑ “ヴァイオリニストの系譜――パガニニの亡霊を追って”. 2021年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日確認。
- ↑ Sârbu, Ion 『Vioara și maeștrii ei: de la origini până azi』 Editura info-team、1995年、244頁。ISBN 9789739723930。
- ↑ キャンベル, マーガレット 『名ヴァイオリニストたち』 岡部宏之訳、東京創元社、1983年(原著1980年)、291頁。ISBN 9784488002169。
- ↑ このコンクールで第二位だったダヴィッド・オイストラフは、結果発表の翌日に祖国で待つ妻に向けて「2位になれたことに僕は満足している。ヌヴー嬢は『悪魔のように』素晴らしいと誰もが認めるだろう。昨日、彼女がヴィエニャフスキの協奏曲第1番を正に信じられない力強さと激しさをこめて奏いた時、僕はそう 思った。しかも彼女はまだ15歳かそこらなのだから、1位が彼女に行かなかったら、それは不公平というものだ」と手紙を書いたという。(アーカイブ 2016年3月4日 - ウェイバックマシン)
- ↑ “不世出の天才ヴァイオリニスト、ジネット・ヌヴー生誕100年記念特集”. 2021年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日確認。
- ↑ 同乗者にはボクシング選手のマルセル・セルダンや画家のベルナール・ブーテ=ド=モンヴェル等がいた。この事故による生存者はいない。(“Constellation Air france”. 2021年4月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年4月29日確認。)