クイーン (バンド)

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クイーン (Queen) は1971年にイギリスロンドンで結成されたロックバンド。ハードロックをベースにR&B,ポップス、オペラ、プログレッシヴ・ロック、グラム・ロック、ヘヴィ・メタル、ピアノ・ロックを調和させた既成概念にとらわれない幅広い音楽性が特徴。

1991年にリードヴォーカル兼ピアノのフレディ・マーキュリーがAIDSの合併症で死去しベースのジョン・ディーコンも引退したが、ギターのブライアン・メイとドラムスのロジャー・テイラーは未だ現役として活動しており、2005年から2009年に元バッド・カンパニーのポール・ロジャースとともにQueen+ポール・ロジャースとして活動した。

2001年にエアロスミス、マイケル・ジャクソンとともにロックの殿堂入り。

左からロジャー・テイラー、フレディ・マーキュリー、ブライアン・メイ、ジョン・ディーコン

メンバー[編集]

フレディ・マーキュリー(Vo.P)
タンザニア・ザンジバル出身。4オクターヴという驚異的な声域の持ち主であり、独特のスタイルと棒付きマイクパフォーマンスで知られる稀代のフロントマン。市松模様全身タイツや革パンにサスペンダーなど、ゲイセクシャルを想起させる独特のステージ衣装も特徴。クラシック音楽に造詣が深く、「伝説のチャンピオン」、「ボヘミアン・ラプソディ」などの歴史的名曲を数多く作り出した作曲と作詞の天才でもある。1991年45歳で死去。
ブライアン・メイ(G.Ky.Vo)
イギリス・ミドルセックス州出身。自作ギター「レッド・スペシャル」を用いた独特のサウンドでクイーンの音作りに大きく貢献している。ロック界一のインテリとしても知られ、2008年には天文学の博士号を取得した。メンバー内で唯一見た目の変化が少ない。代表作にウィー・ウィル・ロックユーアイ・ウォント・イット・オールなどがあり、クイーンのハードロックな面を支えている。
ジョン・ディーコン(B.Ky)
イギリス・レスター出身。残念ながら地味。メロディアスな曲を作ることに定評があり、見た目に見合わずソウル、ファンク系ミュージックからも影響を受けている。なお曲作りの面では「地獄へ道連れ」や、「ブレイク・フリー」、「永遠の翼」などの代表曲があり、かなりのヒットメーカーである。現在は引退しメンバーとも数年に一度連絡を取る程度だという。
ロジャー・テイラー(D.Vo)
イギリス・ノーフォーク出身。ドラム、ベース、ギター、ヴォーカルをこなすマルチプレイヤーかつ若いころは美貌に恵まれていた。日本におけるクイーンのヒットには彼の容姿の影響するところが大きい。ロックンロールをこよなく愛しており、曲にも彼の嗜好が色濃く反映されている。代表作には「レディオ・ガ・ガ」(レディー・ガガの芸名の由来ともなっている)や、「カインド・オブ・マジック」などポップな曲が多い。

特色[編集]

4人のメンバー全員が様々な楽器の扱いに長けており、作曲もできるため非常に幅広い音楽性が強みとなっている。特にメンバーのうち三人(ジョン除く)が歌えるため、ロックバンドらしからぬ厚みのあるコーラスや、ギターの音色をダビングして得られるギターオーケストレーションという技法を確立したことなどが主な特徴である。特にブライアンのギターはシンセサイザーにも似た多彩な音色を出せることで「シンセ使用疑惑」がメディアから出たが、クイーンはそれを否定するようにアルバムジャケットに「ノー・シンセサイザー」と書き入れている。

また80年代に入り、70年代のバンドが次々と人気を失う中で時代に合わせた曲の変化を行い、初期の精巧なサウンドからやや骨太なサウンドとなるなど、以前よりのファンからは戸惑われつつも新たなファンを獲得していった。なお後期では原点回帰とも思える音作りへと戻る兆しを見せたが、フレディの死去によりバンドの活動自体ストップせざるを得なくなった。

ライヴ活動を重視していたバンドでもあり、その(4人による)20年余りの活動の中で、704回もの公演を行ったとされる(実際は86年から91年までフレディの病状が悪化しライヴ活動は行えなかった)。当時天井一面を埋め尽くす色とりどりのライトを使用したステージは画期的であり、パフォーマンスが円熟するほどに広いスタジアムでの公演を得意とするようになった。

経歴[編集]

黎明期[編集]

インペリアルカレッジに通う学生だったブライアンは友人のティム・スタッフェル(Vo,B)と、ロジャーの三人で「スマイル」というバンドでライヴなどを行っていた。しかし全く商業的には失敗に終わり、ティムが脱退した代わりにレコーディングやライヴにちょくちょく首を突っ込んできたティムのルームメイトであるフレディが新たに加入。なかなか良いベーシストが見つからず7人目のオーディションで加入したのがジョンだった。1971年の1月のことである。(これ以前より「Queen」というバンド名は名乗っていたものの、公式ではジョンが加入したこの年を結成年としている。)

この年からアルバムに向けたレコーディングを開始していたものの、レコード会社との契約に手間取り、結局ファーストアルバム「Queen(邦:戦慄の王女)」が発売されるのは1973年7月13日と大きく出遅れた。リリースが遅れたせいで完全に評論家からは時代遅れ(「こんなグループが売れるなら俺は帽子を食ってやる」、「バケツ一杯のションベン」等)と理不尽なまでに叩かれ一蹴されたものの、翌年発売された日本では早くも注目を集めた。

急成長[編集]

1973年のアルバム発売と同期して、人気バンドのモット・ザ・フープルの前座として英国ツアーを開始、着実にファンからの支持を伸ばしていった。1974年初のオーストラリアツアーでは地元DJから「お高く留まった英国人」などと客に向かって紹介されるなどの酷な扱いも受けたが、新作アルバム「クイーンII」が高い評価を受けたこともあって初のヘッドライナーとして英国ツアーを行っている。(この英国ツアーの様子は有名海賊版「シートキーカーズ」に収録されている)

音楽性の移り変わり[編集]

時代に合わせた音楽の変化や、新しい要素などをメンバー全員が積極的に取り入れたためクイーンの音楽はハードロックを基調としつつも、ある意味落ち着かず混沌としている。

初期('73~'74)[編集]

初期クイーンは60年代全盛であったグラム・ロック(英国版ヴィジュアル系)の流れを汲んだグループとしてデビューしたが、レコード会社との契約に手間取り、ファーストアルバム「戦慄の王女」完成から発売までに二年近くの年月を費やしてしまった。よって少々時代遅れになってしまった感があったが、なぜか英国のメディアからは「こんなバンドが売れたら俺はバケツ一杯の小便を飲む」、「ロックのくせにサウンドに小細工が多い」などと異常なほどバッシングされる。

74年発表のセカンドアルバム「クイーンⅡ」では「輝ける七つの海」が初の全英トップ10入りし多少なりとも評価されるようになった。現在でもフレディの世界溢れるプログレッシヴなこのアルバムを最高傑作と評価する声も多く、ガンズ・アンド・ローゼズのアクセル・ローズが「俺が死んだら棺にクイーンの2ndアルバムを入れてくれ」と語ったエピソードは有名である。同年にフレディの作曲した「キラー・クイーン」がヒットを飛ばした辺りから日本の「ミュージック・ライフ」誌が全力プッシュしたため、日本の女性たちの間にクイーンの人気が爆発。翌年来日した際の熱狂ぶりをメンバーは「まるで別の星に来たようだった」と語っている。

中期('75~'79)[編集]

75年に発表した4枚目のアルバム「オペラ座の夜」は名曲「ボヘミアン・ラプソディ」に代表されるこれまでのクイーンの世界観を凝縮した一枚として世界的に売れ、クイーンが認められるきっかけとなった。続く5枚目のアルバム「華麗なるレース」でも芸術性をさらに高め、クイーン独特のサウンドをこのころ確立したともいえる。

76年ごろになると、フレディは白い全身タイツなどのセクシーなステージ衣装をまとうようになり、翌年には様々な模様のついたタイツを着たフレディがクイーンのイメージに定着するほどとなった。アメリカや日本、オーストラリアへのツアーも次々に成功し、77年発表のの「世界に捧ぐ」ではややハードなサウンドを前面に押し出し、ロック人気が薄いとされるフランスでクイーンの曲が13週連続一位となるなど大成功を収めた。

翌年発表の「ジャズ」では今までフレディとブライアンが中心だったアルバムにジョンやロジャーの曲が増え、更なる音楽性の広がりを見せる。その年の北米ツアーではフレディが裸で自転車に乗って登場(全裸の女性が自転車に乗り放送禁止となったバイシクル・レースのPVを再現)。翌年にはカンボジア支援コンサートに出席するなど、数々のツアーの成功で世界が認めるビックバンドへ成長したと言える。

後期('80~'86)[編集]

ライヴ・エイドでの復活劇。

80年発表の「ザ・ゲーム」収録曲であるジョン作曲の「地獄へ道連れ」がアメリカやスペインで一位入りし、フレディ存命中クイーンで最も売れた曲となった。同じくフレディ作曲のロカビリー調楽曲「愛という名の欲望」もチャート一位となるなど、「これまでのクイーン」とは違った曲が売れたことが結果として今後のクイーンの軌道をずらすこととなった。なおこの頃はデヴィッド・ボウイやマイケル・ジャクソン、エルトン・ジョンなどの大御所との交流が深まった時期でもある。(「地獄へ道づれ」は元々マイケルへの楽曲提供用に書かれた曲。)

82年ごろからメンバー間の不仲が表面化し、83年にはコンサートを一切行わず84年ごろは解散の危機に陥ったクイーンだが、フレディ曰く「お互いに辞めたら腰抜けだという意識が働いた」ためになんとか85年のアフリカ支援コンサート「ライヴ・エイド」で見事なパフォーマンスを見せ結束を取り戻す。25万人の観客に「レディオ・ガガ」の拳を突き上げるPVを再現させてしまうなど、20数分間のパフォーマンスは大変なインパクトを残し「ライヴ・エイドの人気はクイーンとデヴィッド・ボウイ、そしてU2が持って行ってしまった」と評されるほどだった。

翌年86年にはアルバム「カインド・オブ・マジック」のツアーをヨーロッパ諸国で行い、各地でスタジアム級のライヴを連発し、観客動員数は100万人を突破した。曲目も見事なもので、1986年時点イギリス最強のライヴバンドはクイーンであるといっても過言ではない。しかし四人がそろったライヴはこのツアーが最後となってしまった。

末期('89~'91)[編集]

86年ネブワースでのライヴを終え、メンバーたちはソロアルバムの作成をするなど一旦休暇を取った。89年に再びリフレッシュしたメンバーが集まり、アルバム「ザ・ミラクル」を完成させ、ファンはアルバムの完成度からツアーを期待したが、ライヴは行われなかった。フレディがエイズに感染し、ライヴを行える体ではなくなってしまったのである。

みるみるうちにエイズはフレディの体を蝕み、立つのもやっとといった状態になりながらもメンバーはレコーディングを行い、91年にはアルバム「イニュエンドウ」を発表。原点回帰とも取れる名曲の数々に新しいクイーンへの期待が高まるも、同年11月23日にフレディはエイズ感染をマスコミに告白。翌日24日に世を去った。

その後('92~2009)[編集]

偉大な表看板を失ったクイーンはバンドを存続させることが困難となり、92年に錚々たるアーティストをウェンブリーアリーナに集結させた「フレディ・マーキュリー追悼コンサート」を行うと、ジョンがステージからは引退。しかし、「イニュエンドウ」完成後フレディが調子のいい日を見計らってレコーディングを行った音源、未発表曲などを遺されたメンバーが3年かけ再編集した「メイド・イン・ヘヴン」を95年に発表。大変な売り上げを博した。

ステージから引退したジョンは97年のレコーディングを最後に音楽業界からも引退。遺されたのはブライアンとロジャーだけになってしまったが、2001年に元バッド・カンパニーのヴォーカル、ポール・ロジャースを加えて「Queen+ポール・ロジャース」としてコンサートを行った。なおファンからはフレディ追悼コンサートで素晴らしいパフォーマンスを見せたジョージ・マイケルを追加メンバーとして有力視する見方が強かったため、高音を得意とするフレディとは対照的なポールを選んだ人選に疑問を残している。

またロジャーはポール・ロジャースとの活動が終わった2009年のインタビューに、「Queenのサウンドに現在一番合っているのはジョージ・マイケルだ。」とも応じているため、薬物問題などで意気消沈しているジョージとの今後の活動が期待されている。

2010年以降[編集]

2011年からは若手歌手、アダム・ランバートとキエフ公演を皮切りに欧州ツアーを行うなどブライアンとロジャーは積極的に活動している。ステージではロジャーが歌う場面が増え、ダブルネックのレッド・スペシャルも導入された。

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豆知識の場[編集]

豆知識は*(内容)のようにアスタリスクの後に本文を続けて記述してください。
  • メンバー全員が大学出のインテリ。特にジョンは主席だった。
  • フレディがお忍びで通っていた二丁目のバーは「九州男」(くすお)Webサイトには当時の彼の写真もある。
  • ロジャーの金髪は実は染めている。
  • メンバー内で一番老けているジョンは一番年下。
  • ブライアンは天然パーマである。
  • Brianの身長は187cm
  • ジョンの好物はピーナッツ。
  • ブライアンの人脈はモーターヘッドの極悪レミーからピンク・フロイドのデヴィッド・ギルモアまで幅広い。
  • 特に、近年は米国のフー・ファイターズと親密で、ロジャーと同バンドドラマーのテイラー・ホーキンスが二人でツアーを行ったり、ブライアンが同バンドのアルバムのジャケットを描いたりするなどしている。また、共通のファンも多い。