やちむん
ヤチムンとは、沖縄の方言で焼物を意味する言葉であり、壺屋焼を始めとした沖縄の陶器や陶芸など全般を差す。
歴史[編集]
およそ6600年程前から野焼きによる土器が存在したことが確認されている。13世紀から14世紀頃からは窯を使用し瓦などの建材が作成されていた。14世紀以降、海上貿易によって大陸や周辺諸国の影響を受け焼物が発展していった。
現在のヤチムンの基礎は1617年、技術指導の為に薩摩より朝鮮人陶工、一六、一官、三官ら3名を招聘し那覇の湧田にて指導に当たらせた事により始まった湧田焼である。そして古我知焼、作場焼、喜名焼、知花焼、宝口窯など各地に古窯が誕生した。
1682年、王府の指導により湧田窯、知花窯、宝口窯など各地に在った窯場を牧志邑の壺屋に統合した。これが現在まで続く壺屋焼の始まりとなる。
1724年には王命により仲村渠致元が八重山へ渡り窯を開き技術指導を行い八重山焼が始まった。1750年代後半頃、仲宗根喜元も八重山へと渡り窯を開いた。
明治12年(1879年)の琉球処分以降、県外から安価な磁器製品が大量に流入し壺屋焼は一時期低迷したが、大正15年(1926年)頃に柳宗悦によって起こされた民藝運動に多くの陶工が触発され、また本土へと広く壺屋焼が紹介された事により壺屋焼は再興した。
第二次世界大戦時には、沖縄戦の戦火に曝されたものの壺屋の戦禍は比較的軽微で済んだ為、戦争終結直後から戦禍で失われた生活用品の製作が行われた。
昭和40年代後半、壺屋地区の都市化に伴い薪窯の煙害が深刻な問題となり、昭和49年(1974年)那覇市は薪窯の使用を規制した為、壺屋で作陶を続ける陶工はガス窯や灯油窯、電気窯への転換を余儀なくされた。
煙害問題により壺屋に於いて登り窯による伝統的作陶を続けることが難しくなった事から、昭和47年(1972年)金城次郎は喜名焼の古窯も在り水や陶土に恵まれた土地であった読谷村に移窯し、それに続き昭和55年(1980年)中堅の陶工4名が共同窯を同地に開設した。その後も多くの陶工が同地に窯を開き現在の読谷村座喜味に在るやちむんの里が生まれた。現在やちむんの里を中心に多数の窯元が読谷村に開窯し、壺屋に並ぶヤチムンの産地となっている。
現在では壺屋以外にも沖縄県内各地に窯元が分散して存在する。
種類[編集]
ヤチムンは大別して3種類ある。
- アラヤチ(荒焼)
- 釉薬を掛けずに約1100℃で焼き締めた焼物、一部マンガン釉、泥釉を掛けて焼いたものも在る。南蛮焼。装飾を余り施していない甕や壺、瓶などの大型の貯蔵容器が中心だが、現在では装飾を施した物や小型の日用品も作られている。
- ジョーヤチ(上焼)
- 白土で化粧掛けを行ったり、絵付け、彫刻紋様、釉薬などを施し約1200℃で焼き上げた焼物。食器、酒器、花器などの日用品が中心。ヤチムンの主流である。
- アカムヌー(赤物)
- 約800℃で焼き上げた素焼き製品。薬罐、土瓶、土鍋、火鉢、焜炉、七輪などの火を扱う製品や花鉢などが作られた。戦後衰退し、現在ではほぼ作られていない。