ジミー・ペイジ

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
白銀のミヤコ様.pngEnpedia:おすすめ項目 (仮)に追加されています。
ピックアップを編集
ギブソン・レスポール(No.1)を弾くペイジ。1970年ロイヤル・アルバート・ホール。

ジミー・ペイジ (Jimmy Page) ことジェームズ・パトリック・ペイジ(James Patrick Page OBE 1944年1月9日 - )は英国のギタリスト。レッド・ツェッペリンのリーダー兼プロデューサーとして1970年代ロック界の頂点に君臨した。現在80歳。

経歴[編集]

幼少のうちからギターに親しみ、10代前半で既に人前での演奏をこなしていた。(14歳の頃にバンドの一員としてTV出演しギターを弾く姿がフィルムに残されている)ロンドンのアートスクールに通う頃にはセッション・ミュージシャンとして引く手数多の存在となっており、本人いわく1960年代にロンドンで発売されたシングルの約五割でギターを弾いていたという。しかし当時のセッションミュージシャンの守秘義務や本人の記憶が定かでないことから正確な数は把握されていない。この時代にザ・フーのレコーディングに参加したり、ジョン・ポール・ジョーンズと知りあったりしている。1965年にひっそりソロシングルをリリースしている。

ヤードバーズ[編集]

1965年頃、ペイジと親交の深かったエリック・クラプトンが脱退したザ・ヤードバーズに加入を要請されるも一度は辞退。代わりに友人のジェフ・ベックを推薦した。その後ヤードバーズからベーシストが脱退しためペイジはなぜかベーシストとしてヤードバーズに加入。ほどなくしてベックが病気療養のためバンド活動を休止したためギターに転向し、ベックが復帰すると彼の脱退まで一時期ヤードバーズはツインギター制となり人気を博した。(この様子は映画「欲望」で確認できる)

ベック脱退後もバンドはペイジを軸に活動をするが、1968年のツアー中に音楽的見解の相違等からバンドは空中分解した。

レッド・ツェッペリン[編集]

ヤードバーズとしてのツアー日程が残っており、意欲も冷めやらないペイジは強力なボーカルを求めスティーヴ・マリオットやスティーヴ・ウィンウッドたちに加入を打診したがうまくいかず、強力なドラマー探しとしてザ・フーのキース・ムーンへ加入を打診するもこれもうまくいかず流れてしまう。結局ボーカルはテリー・リードの勧めでロバート・プラントに決定。プラントの勧めでドラマーはジョン・ボーナムに、ベースは以前共演したジョン・ポール・ジョーンズに決定。レッド・ツェッペリンと名付けられたこのバンドは驚くほどの勢いで北米市場を席巻、そのあまりの大音量とブルースやカントリー、あらゆるポピュラー音楽を組み合わせた音楽性の高さから音楽史に名を刻むバンドとなった。ペイジはバンドのアルバム全てのプロデュースをこなし、リーダーとして曲作りの中心を担った。バンド初期はテレキャスターをメインにライブで使用していたが、途中からギブソン・レスポールを使用、その低く構えたスタイルが彼の代名詞となる。

周知の通りバンドは極めて順調に富を築き世界的な大成功を得たが、1975年ごろからペイジのギター・テクニックは若手ギタリストたちに次第に下手くそと揶揄されるものとなる。原因としてアルコール、ヘロイン中毒による練習不足や腱鞘炎などが挙げられているが彼はこの件に対して口を閉ざしているため明らかではない。結果1980年ごろにはデビュー当初からは比べものにならないほど劣化したギタープレイを衆目に晒すことになるも、1980年の欧州ツアー後にジョン・ボーナムが急死し、バンドは解散を表明する。

以降の活動[編集]

ボーナム死後はなかなかギターを弾く気にはなれなかった彼だが、クラプトンやベックらの旧友の勧めに応じ1982年にはステージに復帰。1984年にベックやプラントとオールディーズ風味のプロジェクト「ハニードリッパーズ」でアルバムを発売、1985年にはポール・ロジャースと共演したプロジェクト「ザ・ファーム」でアルバムを発表、ツアーも行った。1985年のライヴ・エイドでは初のツェッペリン再結成を行い、3曲演奏するもなぜか飛び入り参加したフィル・コリンズがわけもわからずドラムを叩くなど、緊張感に欠くものであった。88年にはソロ・アルバム「アウトライダー」を発表し、アトランティック・レコード40周年記念としてドラムにジェイソン・ボーナムを迎え再び再結成ライヴを行うも、再びひどいギタープレイを露呈してしまう。

1993年に心機一転し元ディープ・パープルホワイトスネイクのデヴィッド・カヴァーデイルと「カヴァーデイル・ペイジ」としてアルバムの発表、日本ツアーを行う。アルバム一曲目のペイジ節溢れるリフにファンは喜んだが、プラントが危機感を感じ無理やり「ペイジ・プラント」としての活動を提案したためこのプロジェクトは短命に終わった。ペイジ・プラントでは民族音楽に接近し、オリジナル曲やツェッペリンのナンバーの再編が行われ、大規模なツアーを1996年まで行いその後は休止している。

2000年以降はブラック・クロウズとセッションやライヴを行ったりしていたが、2007年についに本格的なツェッペリン再結成を行い、大成功を収めた。2008年には北京オリンピック閉会式で「胸いっぱいの愛を」を弾いたり、フー・ファイターズのライヴでジョンジーと二曲演奏したり、ギタリストのドキュメンタリー映画「ゲット・ラウド」に出演、初めて自宅撮影を許可した。2012年には2007年の再結成ライヴをパッケージングしたアルバムと映画のプロモーションとして来日し元気な姿を見せた。

奏法[編集]

ブルースとブリティッシュ・トラッドなどをバックボーンに持ち、元セッションミュージシャンだけに様々なスタイルに対応が可能。かつ極めて優秀なギター・リフ職人(「ハートブレイカー」や「移民の歌」、「コミュニケイション・ブレイクダウン」、「胸いっぱいの愛を」等)として知られる。リズム感はそこまで正確ではないものの、レッド・ツェッペリンではグルーヴを意識しつつリードギター的主張の強いプレイが持ち味だった。またアコースティックギターでは変則チューニングを多用。安価で独特な音色のダンエレクトロを使用した「カシミール」や「ホワイト・サマー」ではバート・ヤンシュの影響かDADGADという変わったチューニングで異国風味を加味している。ブルースの影響が強い初期はボトルネックによるスライドギターも多用していた。

彼が有名にした特殊奏法としてバイオリンの弓で弦を弾くボウイング奏法、またギターではないがテルミンにエフェクターを噛ませて効果音を出すパフォーマンスなども後世に影響を与えている。

使用機材・ギター[編集]

フェンダー・テレキャスター(1958年製)
ヤードバーズ時代からレッド・ツェッペリン1969年のツアー前半まで使用。本人によるサイケなドラゴンペイントが施されたギター。後にペイントの塗りなおしに失敗し破損。バラバラになってネックは流用されたりボディは保管されたりしているとか。
ギブソン・レスポールNo.1(1958年製)
彼の最も有名なギター。前述のテレキャスターに変わって使用され続けた。
ギブソンカスタム「ブラック・ビューティー」
ペイジの初期キャリアでお気に入りだった一本。アームがついた黒いレスポールで、1970年のツアー中カナダの空港で盗難に遭い、ペイジは新聞に広告を出したが現在に至るまで行方不明の幻のギター。1970年のロイヤル・アルバート・ホール公演の映像でアンコールに弾く姿が印象的。
ダンエレクトロ
ピンク・フロイドのシド・バレットが弾く姿を見て興味を持ち、本人いわくデパートで数十ドルで買った安物。独特の荒っぽい音色が特徴で、変則チューニングを施しライヴの「ホワイト・サマー」や「カシミール」でシタール風な演奏を行った。

この節は執筆の途中です この節はまだ執筆途中です。加筆、訂正して下さる協力者を募集中!

人物・エピソード[編集]

  • ケチらしい。
  • ブートレグコレクターとして有名であり、来日すると西新宿を強襲し、ブートレグを売るレコード屋からツェッペリン関連商品を根こそぎ押収するという。そしてその代わりにニッコリ笑った記念写真やサインを残していく。また日本のツェッペリンコピーバンドのライヴに赴いたりもする。
  • アレイスター・クロウリーと黒魔術に傾倒していた時期があり、彼の住居だった古城を買い取って一時期暮らしていた。それらの行為から非難を受けることもあったが、恐らくはファッション的な要素を期待したものと思われる。
  • 同じく1977年のツアーではナチの親衛隊コスプレをしてステージに立つなど際どいファッションが目立つ。
  • 1971年の日本ツアーは、ペイジが原爆投下についての本を読み、被害者へのチャリティを行いたいという強い希望によって行われたものであった。一行は広島平和記念資料館を訪れ、ペイジは目に涙を浮かべていたという。当時の広島市長と面会するとバンドは700万円を被害者救済に寄付した。
  • 片親が中国系のため、加齢とともに日本人ぽい顔つきになっている。若い頃はアジア系であることをかなりバカにされたとか。