ロバート・プラント

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ロバート・アンソニー・プラント (Robert Anthony Plant CBE, 1948年8月20日 - ) は英国のロックシンガー。若くしてレッド・ツェッペリンのヴォーカルとして大きな成功を収め、ロック史で最も重要なヴォーカリストの一人として後世のロックヴォーカルたちに多大な影響を与えた。

レッド・ツェッペリン時代のあだ名はパーシー(Percy)で、現在75歳。

1971年の武道館公演より。

人物概要[編集]

19歳の時にジミー・ペイジに誘われレッド・ツェッペリンのヴォーカルとして加入。ブルースに根差しながらも圧倒的声量と伸びやかな高音から深みのある低音まで操る卓越したヴォーカルスタイルでバンドを成功に導いた。また185センチという長身に加え豊かな金髪、端正な容姿とセクシャルなパフォーマンスから70年代を代表するセックス・シンボルとして富と名声をほしいままにした。

また彼の手掛けた歌詞は独特の神秘性や哲学性を持ち、ヴァイキングの死生観に彩られた「移民の歌」などが後世のメタルに影響を与え、「天国への階段」はロック界に名を刻む名歌詞となった。

私生活では数多くの自動車事故や息子の病死など災難に多く見舞われたが、2009年に音楽文化への貢献から大英帝国勲章(CBE)を授与された。

経歴[編集]

Zep以前[編集]

1948年、イングランドのブラック・カントリー、ウェスト・ブロムウィッチで土木技師の子として生まれる。早くにエルヴィス・プレスリーの音楽と出合いロックンロールに魅せられるとそれからウィリー・ディクソンやロバート・ジョンソンなどのブルースも聴き漁るようになった。16歳の時には公認会計士になるための受験勉強を放棄し家出。建設会社で土木作業員として働きながらバンド活動を行い、ソロでシングルを発表したり、この時期にジョン・ボーナムともバンド・オブ・ジョイというバンドでライヴを行っていた。この時期の彼はあくまでブルースシンガーとして太く声量のあるスタイルであった。

成功から解散[編集]

1968年、ザ・ヤードバーズが解散してしまったジミー・ペイジは新しいヴォーカル探しの果てにテリー・リードから紹介されたプラントの元へと赴く。彼の声量に圧倒されたペイジはなぜこの若者が野に埋もれているのかを訝しみ、性格テストまで行った。結果プラントは合格し、ドラムにボーナムを推薦。レッド・ツェッペリンがここに誕生する。

結果世界的な成功をおさめ莫大な富と名声を得ることになったのだが、身内にはトラブルが相次いだ。1970年に自動車事故で軽い怪我を負い(これはすぐに完治)、1973年にはハードワークの為か喉を傷め翌年手術を受けるも、過去の圧倒的ハイトーンは失われた。そして1975年の英国ツアー後ギリシャのロードス島で妻と共に再び自動車事故に遭う。両足を複雑骨折した彼はアルバム「プレゼンス」のレコーディングを車椅子のまま行い、「アキレス最後の戦い」の歌詞にこの時の状況が反映されている。1977年の北米ツアー途中ニュー・オリンズで彼は長男カラックが胃の感染症で急死した報を受けツアーを中断。一年半ほど悲しみの中休養期間に入った。

1979年には周囲の説得もあってステージに復帰。堂々たるヴォーカルを聴かせ、1980年のツアーでは過去の曲をオリジナルのキーで歌えるほどに喉の調子も良くなっていたが、ツアー後にジョン・ボーナムが急死、レッド・ツェッペリンは解散する。

その後のソロ・ワークス[編集]

メンバーの中では最も早く1982年にはファーストソロアルバム「11時の肖像」を発表。ツアーも行うが演奏曲目はZep時代の曲を一切排除したもので、アーティストとしてのシビアな姿勢が見て取れる。彼のソロアルバムはオールディーズ風味の趣味丸出しなものから中近東音楽への傾倒、フォークなど幅広い素養と冒険が込められており、数々の過去への否定的発言も含めレッド・ツェッペリンという巨大すぎるブランドからの脱却に挑んでいた。1985年にはLIVE AIDで初めてのZep再結成に望むが、本人にとっては不満の残るものであった。

ディスコグラフィー[編集]

  • 11時の肖像 - Pictures at Eleven (1982)
  • プリンシプル・オブ・モーメンツ - The Principle of Moments (1983)
  • ザ・ハニードリッパーズ - The Honeydrippers: Volume One (1984) ジミー・ペイジとジェフ・ベックとの共同制作。
  • シェイクン・アンド・スタード - Shaken 'n' Stirred (1985)
  • ナウ・アンド・ゼン - Now and Zen (1988) ジミー・ペイジが二曲でギターを弾いている。
  • マニック・ネヴァーナ - Manic Nirvana (1990)
  • フェイト・オブ・ネイションズ - Fate of Nations (1993)
  • ノー・クォーター - No Quarter (1994) ペイジ・プラントとして。
  • ウォーキング・イントゥ・クラークスデイル - Walking into Clarksdale (1998) 同上。
  • ドリームランド - Dreamland (2002)
  • マイティ・リアレンジャー - Mighty Rearranger (2005), with Strange Sensation
  • レイジング・サンド - Raising Sand (2007) アリソン・クラウスとのデュエット。グラミー賞受賞。
  • バンド・オブ・ジョイ - Band of Joy (2010) アメリカのルーツ・ミュージックに根差した内容。

逸話[編集]

  • 一般的に彼のヴォーカリストとしての全盛期は1970年の夏から1972年の夏までの二年間ほどであるとされる。どんどん音量を上げる楽器隊に負けじと大声で連日高音を出した結果、喉を傷め1972年の秋に来日したときにはすでに調子を崩していた。その後好不調の波を行ったり来たりした挙句インフルエンザに罹患。とどめを刺される形でキーを下げるなどヴォーカルスタイルを変えざるを得なくなった。ツアー後の1974年には喉の手術を行い、1977年から1979年頃には太くドスのきいた以前とは違う魅力のあるスタイルになった。
  • スティーヴ・マリオットをリスペクトしており、一時期彼の追っかけをしていた。ある時楽屋に忍び込んでブルースハープを盗んだこともあったという。
  • ステージではジーンズの下はノーパンだったらしい。女物のブラウスをはだけて歌う様はとにかくエロい。
  • 1968年にインド系の女性モーリーン・ウィルソンと結婚。三児を得た(長男カラックは1977年病死)が、1983年離婚した。
  • Zep時代は自らをThe Golden Godと称していた。
  • コンサートに対し、観客はうるさすぎず静かすぎずというシビアな価値観を持っている。
  • 見た目は派手で男らしいが、内面は繊細で少女趣味的な一面を持っている。
  • 2014年のサマーソニックで18年ぶり、ソロとしては30年ぶりに来日公演を行った。

外部リンク[編集]