レッド・ツェッペリン

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レッド・ツェッペリン (Led Zeppelin) は1968年に英国で結成されたロックバンド。ずば抜けた楽曲やステージパフォーマンスのインパクトで70年代を代表するバンドとして知られ、現在の音楽業界にも多大な影響を残している。略称はZEP(ゼップ)やLED ZEP、または単純にツェッペリンなどと呼ばれる。

左上から時計回りにジョン・ポール・ジョーンズ、ジミー・ペイジ、ロバート・プラント、ジョン・ボーナム

概要[編集]

1968年にデビュー後、ブルースを土台としつつもカントリー、フォーク、中近東音楽、レゲエやフォークロアなど様々なジャンルを取り入れ、「ハード・ロック」というジャンルを確立した英国を代表するバンドの一つ。現在のロックやメタルなどの基礎を築いたことでも知られている。アルバムの売り上げは3億枚を超えている(ビートルズやエルヴィス・プレスリーに匹敵)と試算されており、1995年にロックの殿堂入りを果たした。

1980年の解散までに8枚のオリジナル・アルバム、一本のライヴ・ドキュメンタリー映画、それに伴うサウンドトラックとして一枚のライヴ盤を発表。解散後も別の形で3枚のアルバムを発表している。またこの当時としては異例の、ほとんどシングルを発売せずアルバムをゲリラ的に発売し、プロモーションツアーで主にアルバムを売る手法も新しいものであった。テレビ番組や雑誌などへの露出が極端に少なかったにも関わらず、小さなクラブや大学などでのパフォーマンスが評判を呼び、デビューから瞬く間に巨大なバンドへと成長していった。

メンバー[編集]

  • ジミー・ペイジJimmy Page(エレクトリックギター、アコースティックギター、マンドリン、ダルシマー、ヘロヘロ声、たまにテルミン)

バンドのリーダーにして全てのアルバム、楽曲などのプロデュース面を担当。強烈なリフ作りの能力、独特のナルシスティックなパフォーマンスなどで世界三大ギタリストの一人に挙げられる。活動中期ごろから演奏スタイルの変化、薬物中毒などで演奏能力が低下する以前は「70年代のパガニーニ」と称され、かのクラシック界の巨匠カラヤンも彼を讃えていた。またアコースティックギターの演奏にも定評がある。愛称はジミーもしくはペイジたん。

ブルースを高音でシャウトする歌唱法、凄まじい声量でロック・ヴォーカルの頂点にいたヴォーカリスト。また金髪で整った顔立ち、セックスアピールにあふれたパフォーマンスなどで、当時のセックスシンボルとまで言われた。しかし73年以降喉を傷め、それからは歌唱法を変えている。またケルト文化から影響を受けた作詞も特徴。愛称はパーシーまたは単純にプラント。

  • ジョン・ポール・ジョーンズJohn Paul Jones(エレクトリックベース、ウッドベース、マンドリン、キーボード、バンジョー、ピアノ、ヘロヘロ声、地味)

様々な楽器を使いこなす器用さ、安定した演奏でバンドを支え、楽曲のアレンジ面に多大な貢献をした。ベースを使ったリフ作りにも定評があり、ソロアルバムや、新規バンドを結成しツアーを行うなど現在も活発に活動中である。愛称はジョンジーあるいはジョーンズ氏。

桁外れのパワフルなドラミング、天性のものとまで言われる卓越したセンスとリズム感で現在のドラマーに影響を与え続けるドラマー界の伝説。彼が1980年に急死したためにバンドは解散を余儀なくされる。愛称はボンゾ。

元格闘家のマネージャー。ボスであるジミーから汚れ仕事を一手に引き受け、5人目のツェッペリンと呼ばれている。1995年心臓発作により死去。

来歴[編集]

  • 1968年 - 結成、「ニュー・ヤードバーズ」としてのスカンジナビアツアー、全英ツアー。
  • 1969年 - ファースト・セカンドアルバム発売。全米、スカンジナビア、全英、欧州ツアー。
  • 1970年 - サードアルバム発売、全英、欧州、全米ツアー。
  • 1971年 - フォースアルバム発売、全英、全米、初来日ツアー。
  • 1972年 - 豪州、欧州ツアー。10月ごろからプラントの声がヘロヘロに劣化。日本、全英ツアー。
  • 1973年 - 「聖なる館」発売。欧州、全米ツアー(NYのMSGでライヴドキュメンタリー映画「狂熱のライヴ」の撮影も行われた。)この後プラントは喉の手術を受ける。
  • 1975年 - 「フィジカル・グラフィティ」発売。欧州、全米ツアー。英国への凱旋公演としてロンドンのアールズ・コートで連続公演が行われたが、プラントが自動車事故で負傷しこの後のツアーが中止となる。
  • 1976年 - 「プレゼンス」発売。映画「狂熱のライヴ」公開、サウンドトラックとしてのライヴアルバム「永遠の詩」発売。
  • 1977年 - 全米ツアー。プラントの声がある程度回復するも今度はペイジが薬物中毒による影響(ギター下げ過ぎによる腱鞘炎も悪影響を与えた)でプレイに支障をきたす。ツアー途中でプラントの息子が急死しまたもやツアーが中止となる。
  • 1979年 - 「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」発売。コペンハーゲンにおいて二日間の顔見せ公演と、英国ネブワースでの復活公演を二回行うも、ペイジのギタープレイは劣化の一途をたどる。
  • 1980年 - 欧州ツアー後にジョン・ボーナムが急死し、バンドは解散を表明。
1971年、ダブリン。

ニュー・ヤードバーズ[編集]

1960年代にかのエリック・クラプトンやジェフ・ベックを輩出したことで知られるバンド、ヤードバーズの最後のリードギタリストとなったジミー・ペイジは、20代前半にしてかなりの名声を得ていた。しかしヤードバーズは1968年7月7日のライヴを最後に事実上の解体状態となり、ベースのクリス・ドレヤとジミーは新たなメンバー探しをすることになる。まずヴォーカル探しということで共演経験のあるテリー・リードをボーカルとして呼ぶが、彼は誘いを断る代わりにロバート・プラントを紹介する。彼の声を聴いたペイジはなぜこれほどのボーカルが野に埋もれているのかを訝しみ、性格をテストしたほどだという。

またボーカル探しに並行してクリスが脱退しカメラマンへ転向してしまったため、そこで新聞にベース募集の記事を投稿。それを読んだジョン・ポール・ジョーンズはペイジに連絡するか悩んでいたが、妻の一言でペイジに電話し加入した。さてドラムに関してはプラントが以前同じバンドにいたジョン・ボーナムを紹介したもののボーナムはあまり乗り気ではなく、ペイジもザ・フーからキース・ムーンを加入させたいとまで考えていた。しかしヤードバーズ時代からペイジと組んでいたマネージャーのピーター・グラントはボーナムにひたすら電話をかけまくり加入を要請。結局折れて加入することになった。そして初めてのセッションで「トレイン・ケプト・ア・ローリン」を演奏したところ予想以上の出来上がりにメンバー全員が手ごたえを感じたのだった。

メンバーがそろった所でペイジは契約の都合上ヤードバーズが残していたツアー日程を消化するためにバンド名を「ニュー・ヤードバーズ」として1968年9月7日からスカンジナヴィアツアーを行う。プラントはこの時期このバンドが長続きするとは思っておらず、「半年ぐらいで自動車のディーラーなってるだろう」と考えていた。英国ツアー途中、10月19日のリヴァプール公演からバンド名を「レッド・ツェッペリン」としてツアーを続ける。ツアーと並行して彼らはファーストアルバムをセルフプロデュースで録音し始めるが、この際のスタジオ代はペイジがヤードバーズ時代に蓄えた貯金で全額支払った。

快進撃[編集]

音楽性[編集]

解散・解散後[編集]

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ライヴ活動[編集]

詳細はレッド・ツェッペリンのライヴへ。

彼等の存在を伝説的にしているのがそのライヴであった。スタジオ版とは桁違いなアレンジや、メンバー同士のグルーヴ、その日その日に演奏が進化していく即興性などが人気となり、メディアへの露出がほとんどなくともファンを獲得していった。英国、北米市場をあっという間に席巻した後の71年と72年に来日も果たしており、特に初来日の武道館や大阪の4時間パフォーマンスは伝説ともなっている。

しかし彼等のライヴに関しては実際に観に行く以外には公式からの映像、音源公開が非常に限られており、ライヴを録音した海賊版(ブートレグ)の濫造を招くことになった。現在全アーティスト中もっともライヴ海賊版が多いバンドとも言われている。

ディスコグラフィー[編集]

スタジオ・アルバム[編集]

ライヴ・アルバム[編集]