1976年の太平洋クラブライオンズのユニフォーム

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1976年の太平洋クラブライオンズのユニフォームは、太平洋クラブ・ライオンズ1976年に大幅にデザインを変更したユニフォームの事を指す。前期用はホーム・ビジター用共前面に背番号と同じ大きさの番号が着けられた通称アメフト型ユニフォーム」、後期用はホーム用にチーム名、ビジター用に企業名が入る通常のデザインに戻した。しかし、同年オフに廣済堂傘下企業のクラウンガスライターがメインスポンサーに代わり、チーム名も「クラウンライター・ライオンズ」と変更されたため僅か1シーズンで消滅した短命ユニフォームである。

デザイン[編集]

ユニフォーム上着はホーム用が袖・肩・首周りにかけてワインレッドで、胴周りは白。ビジター用がホーム用と色が反転する形で袖・肩・首周りにかけて白で胴周りがワインレッド。上着両袖ラインはホーム・ビジター用共に青地に白の2本線。ズボンはホーム・ビジター用共にワインレッド。ベルトレス・ズボンラインは青地に白の2本線。帽子の色はホーム・ビジター用共にワインレッドで天ボタン・空気穴・つばスカイブルー。帽子マークはスカイブルーの白縁取りでアルファベットのTとLを重ねた形。スパイクはスカイブルーにネイビーのライン。ホーム・ビジター用共に上着右袖に帽子を被ったライオンのイラスト。左袖にFUKUOKAロゴ。書体はゴシック体でホーム用が白ヌキ、ビジター用がワインレッド。(ここまでシーズンを通して同じ)

  1. 前期 ホーム・ビジター用共に前面は番号のみで背番号上に西鉄時代の1968年以来となるローマ字の背ネームが復活。ホーム用前面の番号・背番号・背ネームの色はワインレッド、ビジター用は白ヌキ。番号は角型数字。背ネームはゴシック体
  2. 後期 ホーム用はワインレッドで筆記体のLionsのロゴ。ビジター用は白ヌキで2段配列(上がTAIHEIYO、下がCLUB)のオリジナル書体ロゴ。どちらも胸番号なし。

概要[編集]

1972年限りで西鉄が球団経営から撤退したため、新たに福岡野球株式会社を設立。スポンサーにゴルフ場リゾート開発会社の太平洋クラブを迎え、新生ライオンズの球団社長に就任した坂井保之は、ファン獲得ならびに観客動員数を上げるために様々なアイディアを提案していった。

その手始めとして、日本プロ野球界初の原色系ユニフォームを採用した[1]。帽子は、太平洋クラブのマークに白+青・白+赤・青+赤・赤+青(※ いずれも後者が帽子のつば)の4種類。ユニフォームはホーム用が白ベースに青のライン・同赤のライン・青ライン+袖青・赤ライン+袖赤の4種類。ビジター用は上着とズボンのラインが青・上着とズボンのラインが赤の2種類と、当時としては奇抜で新生1年目の前期には優勝争いに加わり、1975年には初のAクラス入り(3位)を果たすなど西鉄末期から続いていた低迷期を脱したかに見えた。

1976年、レオ・ドローチャーを監督に招聘するのを機に[2]、買収後初めてユニフォームをフルモデルチェンジした。ユニフォーム前面にチーム名・企業名の代わりに背番号と同様の大きさの番号を着けた通称「アメフト型ユニフォーム」である。だが、上下ワインレッド色という奇抜なデザインのユニフォームはファンや選手からも専ら不評で、前期は独走の最下位。後期の途中から前面をチーム名と企業名にマイナーチェンジしたユニフォームを投入したが結局シーズン通して最下位に終わった。その年のオフ、上記の通りメインスポンサー変更により「クラウンライター・ライオンズ」が誕生し、新たにユニフォームを新調する事となった。従ってこのユニフォームはわずか一年(厳密にいうとわずか数ヶ月)で封印されることとなった。

脚注[編集]

  1. 売却直後の春季キャンプではまだ出来上がっていなかったため、西鉄ライオンズのユニフォームを着用していた。その後もしばらく練習用として使用されたため、太平洋になってから入団の真弓明信ドン・ビュフォードなどが、西鉄のユニフォームを着用した映像や写真が残っている。
  2. 体調の問題で就任を見送り、鬼頭政一コーチが監督に昇格した。

補足事項[編集]

二軍ではユニフォームは1975年年までのデザインのまま(ホーム用は青ライン、ビジター用は赤の上着のものを使用)、帽子のマークのみ新デザインと同じTとLの組み合わせ(マークはオレンジ色、帽子は青+赤)に変更したものが使用された。