1972年の広島東洋カープのユニフォーム

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1972年の広島東洋カープのユニフォーム1963年にフルモデルチェンジされた通称Hマーク(※帽子のマークにHマークが採用されていた時代のユニフォーム。ただし、Hマーク自体は2022年現在も球団旗のマークとして使用されている)ユニフォームの最終形デザインで1972年にマイナーチェンジされたものを指す。

1973年に初代のCマークユニフォームを採用したためこの年で消滅する。最終形である当該ユニフォームは便宜上短命ユニフォームとして扱った。

デザイン[編集]

ユニフォームはボタン止め式で色はホーム用が白、ビジター用がグレー。帽子、アンダーシャツ、ベルト、ストッキングの色が紺、スパイクが黒のラインなし。1972年のデザインと前年までのデザインの相違点は以下の通り。

  1. 帽子のHマークの色がオレンジ色(前年までは白)。
  2. ホーム用のCARP、ビジター用のHIROSHIMAの胸ロゴ、胸・背番号が紺でオレンジの縁取りに変更(前年まではホーム用は紺のみ、ビジター用は紺で白縁取り)。
  3. ビジター用の胸番号を右胸からホーム用と同じ左胸に変更。

概要[編集]

この年広島はアメリカアリゾナ州ツーソンで初(現在のところ球団史上唯一)の海外キャンプを実施した。1968年に就任した根本陸夫監督はチームに染み付いたBクラス体質の一掃に心血を注ぎ、就任一年目にはチームを初のAクラス(3位)に浮上させるなど結果を残したが、翌年以降は再びBクラスに低迷。そこでこの年、1969年に最下位からワールド・シリーズを制して初の世界一に輝いた「ミラクル・メッツ」こと大リーグニューヨーク・メッツにあやかって、メッツデザインのユニフォームにマイナーチェンジした。しかし、不慣れな海外キャンプのためか肝心の調整に失敗。開幕から低空飛行を続けて立ち直れないまま最下位でシーズン終了。根本監督は「このキャンプが失敗ならば俺は責任をとって辞める」とキャンプイン前に宣言していたがその言葉通りシーズン途中で休養の後辞任した(※休養後森永勝也コーチが監督代行)。ちなみにこの年広島は日系人(と日本人に準じる扱いの定住外国人)以外では初の外国人選手を獲得しているが、その一人ソイロ・ベルサイエス「ユニフォームのデザインが20年古い」と文句を言う等、評判も今ひとつだったのか、マイナーチェンジ版はわずか1年で封印された。

補足事項[編集]

広島のHマーク版ユニフォームは1963年のフルモデルチェンジ以降1971年まではホーム用のデザインは上記デザインにマイナーチェンジされるまで一貫していたがビジター用は幾度かマイナーチェンジを繰り返している。マイナーチェンジは以下の通りである。

  1. 1963年~1967年 ユニフォームが赤主体から再び紺主体となる。当初はホーム用は胸番号が、ビジター用は袖番号が採用されていた(袖番号は右袖)。
  2. 1968年~1971年 ラインが太くなり、左袖にTOYO(オーナー企業東洋工業のローマ字読み)の文字が入る。同時にビジター用の胸番号が復活する(胸番号は右胸)。