顕仁皇后韋氏
ナビゲーションに移動
検索に移動
顕仁皇后韋氏(けんじんこうごういし、1090年 - 1159年)は、北宋の皇帝・徽宗の妃。皇帝の寵愛を受けて高宗を産むが、靖康の変で北宋が滅ぶと、捕虜となり強姦された。
30代なかばとはいえ美女の彼女は、洗衣院で娼婦として犯され、趙嬛嬛とともに完顔宗顔の妾として性的奉仕し、二人の男児を産む。その後、解放後に皇太后とされた。
生年[編集]
韋皇后の生年は、『宋会要』では1080年とされているが、1090年が正しいと思われる。第一に、同じ妃の喬貴妃を姉、自身を妹とする義理の姉妹の契をかわしているが、喬貴妃は1086年生まれであり、年上となるのが自然である。
第二に、息子の高宗は、1107年生まれであるが、韋氏が1180年生まれだとすると、27歳のときの子となり、当時としては高齢である。他に10代前半から後半の若い美女を多数後宮にかかえていた徽宗が20代後半の女性を初めて寵愛して妊娠させるとは考えづらく、1090年生まれなら27歳と蓋然性の高い数字となる。
第三に、1127年以降に、捕虜となった韋氏は、完顔宗顔の妾となり二人の子を生んでいるが、1080年生まれでは40代後半のこととなり不自然である。1090年生まれの説ならば30代半ばでの出産であり、可能であるであろう。
この点は、 何忠礼:《环绕宋高宗生母韦氏年龄的若干问题》,《文史》第39辑,1994年でも実証されている。