韓林児

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韓 林児(かん りんじ、? - 1366年)は、元末明初期における群雄を建国したが実際は傀儡に過ぎなかったという。最後は覇権争いに敗れて朱元璋を頼り、世を去った[1](在位:1355年 - 1363年)。

生涯[編集]

欒城(現在の河北省)の出身[1]。父は白蓮教徒の教主であった韓山童で、伝えるところによると北宋徽宗の8世子孫だという[1]1351年に父が反乱の計画の発覚でにより処刑された際、韓林児は母親とともに逃走した[1]1355年、父の門人だった劉福通により現在の安徽省に迎えられて皇帝に即位し、小明王と号した[1]。国号は宋である[1]。しかし実際の権力は劉福通が掌握していたため韓は傀儡であった[1]1363年に劉福通が張士誠により殺害されると、朱元璋の下に逃走してその庇護を受けた[1]。朱元璋も韓林児を張士誠討伐の大義名分に利用するため庇護したのである[2]

1366年に韓林児は死去しているが、一説に用済みになったと判断した朱元璋により謀殺されたとする説もある[2]

脚注[編集]

  1. a b c d e f g h 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P234
  2. a b 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P233

参考文献[編集]