張士誠
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張 士誠(ちょう しせい、1321年 - 1367年)は、元末明初期における群雄。周を建国したが朱元璋に敗れて自殺した[1](在位:1354年 - 1357年。1363年 - 1367年)。
生涯[編集]
泰州(現在の江蘇省)の出身。元末における反乱指導者の一人で、1353年に弟らと共に挙兵[1]。1354年には誠王と号し、国号を周として建国まで果たした[1]。蘇州を拠点にして江南で勢力を拡大[1]。しかし江南は朱元璋も地盤にしており、張士誠は朱元璋に敗れて1357年に元に降った[1]。1363年に韓林児を追放し、劉福通を殺害したが、追放した韓林児が朱元璋を頼ったため、朱元璋との対立は決定的になった[1]。同年、呉王を称する[1]。
1367年、蘇州は朱元璋により落とされ、張士誠は自殺した[1]。享年47。