豊州乱記
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概要[編集]
著者・成立年代[編集]
天正14年(1586年)12月から間もない時期に成立したものと見られる。著者は不明であるが、島津軍に関する進軍の日付、地理関係に詳しいことから、島津氏の関係者で恐らく豊後国の遠征(豊薩合戦)の参加者であると考えられる。
別称は『豊州戸次鶴ヶ城合戦之覚』(ほうしゅうへつぎつるがじょうかっせんのおぼえ)。
内容[編集]
天正14年(1586年)、島津義久と大友宗麟・義統父子による豊薩合戦の中で、鶴ヶ城の合戦について記録した覚書である。戸次川の戦いで島津軍が勝利し、豊後府内に進軍するまでが描かれているが、その後は無い。
死者の数を「敵味方数百程」「敵味方6000余」「敵味方2000程」と、敵味方を区別せずに記録しているのがかえって珍しく特徴的である。混乱した戦場だったので、ある程度の著者の目算で書いたのだと思われる。なお、著者は島津氏の関係者だと思われるが、島津氏の中でも著名な武将である新納忠元を「二色」と書いている。