許広漢
許 広漢(きょ こうかん、? - 紀元前61年)は、前漢の宦官で外戚。前漢の第9代皇帝・宣帝の許皇后(許平君)の実父。許伯とも称された。非常に面白い経歴を持つ人物である。
生涯[編集]
ついてない男[編集]
若い頃、武帝の息子である昌邑王・劉髆(一時的に前漢の皇帝になった劉賀の父)に仕えた。当時、皇帝が甘泉宮に行幸する時には諸国の王も皇帝に従うのが慣例となっており、許広漢もお供として騎馬で武帝の行列に従っていた。ところが、出かける前に自分の馬の鞍がひどく傷んでいたので、武帝の行幸の時に鞍が切れたりしたらどんな咎めを受けるかわからないとして他人の鞍を拝借してしまった。後で返還するつもりだったとされるが、当然無断拝借なので相手側は武帝に盗まれたと報告し、許広漢は盗人にされてしまう。普通はこの程度の盗みなら笞を食らわされる刑罰か、数か月の懲役であったが、武帝の行幸という国家の重要行事に汚点をつけたとして死刑を宣告される。当時、死刑を逃れるには莫大な金銭を支払うか、史記で有名な司馬遷のように去勢されることを自ら志願するしかなかった。許広漢に大金を払える能力は無かったから、後者を選んで去勢され、自ら宦官になった。
去勢されたため、その後は後宮で働くしか食い扶持を得る方法はなかった。とはいえ宦者丞(宦官の取締役)という、宦官の中ではかなり高い地位を得て一時は出世を果たしている。
これがまた転落したのは前80年の上官桀の変であった。この時、許広漢は当時の皇帝・昭帝から上官家の家宅捜索を命じられたが、この家宅捜索で葛籠から長さ数尺の縄を数千本も入っているのを見つけながら皇帝に報告しなかった。そして他の役人が改めて家宅捜査をしてその縄を見つけると、謀反の重要な証拠として皇帝に報告した。上官桀のクーデターは霍光ら反対派を一斉に検挙するというものだったため、この縄はその反対派を捕縛する際に用いる道具だったと認定されたのである。当然、許広漢は職務怠慢として有罪に認定され、鬼薪(御陵造営のための木材を山の中から刈り出す重労働)という処罰を受けることになった。しかも刑期が過ぎると今度は暴室嗇夫(女官の病棟の守衛で女官だけでなく門番の汚物の処理担当者)に任命され、完全に出世コースからは外れることになった。
ついてないときはとことんというのか、家庭でも不幸が続いた。宦官になる前に生まれた娘・許平君が内者令(後宮の衣服を司る役人)の欧侯氏の息子(600石)と婚約していたのだが、婚礼前にその息子は死んでしまって後家になってしまった。
ついている男[編集]
娘の将来に不安を抱いた許広漢は、宦官仲間で親しい張賀から元皇族である劉詢に嫁がせてはと誘われた。劉詢は実は前91年の巫蠱の獄で祖父の戻太子劉拠をはじめ両親兄弟など家族を皆殺しにされていたが、この劉詢のみは変事が起きた年に生まれた赤子のため無罪とされて庶民として生きていたのである。ただ、この結婚も賭けみたいなものだった。武帝の後継者には末子の昭帝が既に即位していた。つまり劉詢の家系は昭帝の長兄の家系だから、下手をすると謀反を企んでいるのではないかと疑われる恐れもあり、そのため妻は猛反対したが、許広漢は庶民に落とされているとはいえ皇族だから、繋がりをもって悪くないと説得して娘を劉詢に嫁がせた。
これが大当たりになった。前74年に昭帝が息子無くして崩御し、後継者に迎えられた劉賀は乱行がひどくて27日で廃位された。そして次の後継者として迎えられたのが、劉詢だったのである。この劉詢こそが宣帝であり、許平君は一気に皇后となり、許広漢は皇帝の外戚になった。
許広漢は転落人生で経済的にも生活苦だったから、一気にそれが裕福になったことで十分に満足し、政治権力には興味を持たなかった。当時、政権を掌握していた重臣の霍光は外戚の専横を恐れていたが、許広漢が金銭にしか興味を持たない人物とわかるとそれまで渋っていた昌成君の地位を与えて、その後も封侯を行なったという。
ただし、娘の皇后は次の皇帝になる元帝を産んでいたが、前71年に後宮における権力争いから霍光の妻・霍顕に毒殺され、家庭的に不幸は重なった。
前61年に死去した。許氏はその後、宣帝や元帝の下で外戚として重きを成した。