若杉鳥子
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若杉 鳥子(わかすぎ とりこ、1892年(明治25年)12月25日 - 1937年(昭和12年)12月18日)は、日本の小説家・プロレタリア作家。東京府生まれ、茨城県育ち。師匠に横瀬夜雨などがいる。本名は、板倉とり。
人物[編集]
東京下谷に生まれるが、茨城県古河町の芸者置屋の養女となり、学齢まで里親に育てられた。古河高等小学校を卒業。幼い頃から、「女子文壇」や「文章世界」などに作品を載せていた。やがて投稿仲間の今井邦子、生田花世、水野仙子らと交流を持つようになる。16歳で上京し、17歳で中央新聞記者になり、19歳で元備中松山藩主板倉勝弼子爵の庶子で萬朝報記者の板倉勝忠と結婚した[1]。
若杉は、詩や短歌、美文、随筆 、小説、ルポなど、様々な種類の作品を生み出した[2]。若山牧水の「創作」、生田春月の「詩と人生」、島崎藤村の「處女地」などに作品を発表。1929年に「文芸戦線」に発表した『烈日』でプロレタリア作家として評価を受け、プロレタリア作家同盟に加盟。宮本百合子、佐多稲子らと「働く婦人」の編集に従事した。1933年には治安維持法違反で検束された。
1937年に持病の悪化で没したが、「ある母のうたへる」などの遺稿作品も見つかっている[3]。その他、「紅」「空にむかひて(随筆集)」「一水塵(詩歌集)」などの作品が知られるが、この他にも多数の作品を残している。
記念碑[編集]
若杉鳥子の記念碑は複数あり、若杉の故郷である古河市内の複数の場所に所在する。それぞれ「節と鳥子の歌碑」「若杉鳥子文学碑」「若杉鳥子歌碑」などの名を持つ。また東京の八王子にも、「若杉鳥子墳墓」がある[4]。