芦田辰治郎
芦田 辰治郎(あしだ たつじろう、1898年[1] - )は、特高警察官、公安調査庁調査官[2]、左翼運動研究家[3]。筆名は有田満穂[1](ありた まほ)。
経歴[編集]
京都府大江町(現・福知山市)生まれ。1925年日本大学法律学部卒業。1926~1945年警視庁特高警察官。1952~1959年法務省公安調査庁調査官[1]。
人物[編集]
警視庁警部補[4][5]。築地警察署に所属した特高警察官[6]。戦後は公安調査庁調査第一部第一課長補佐[7][8]。有田満穂のペンネームで日本共産党に関する本を執筆した[2]。北川鉄夫は1975年に芦田について「この男は小林多喜二虐殺に一役買った、当時の東京築地警察の特高スパイである。俳優座の松本克平が左翼劇場の当時この男にひどい目にあっており、私も一度やられたことがあるが、この元特高が戦後も新しい形のスパイ活動を続けており、昭和二七年から公安調査庁の調査官に復活して、さかんに『日本共産党戦略戦術史』といった反共書を出している」「(前略)それによると京都府下大江町出身である。その地に精しい人に調べてもらったら、大江町の北原の出身で大江町清水(河守)の芦田家の養子になり、のちスパイになったわけである」と述べている[9]。
1947年4月27日に細川嘉六をはじめとする横浜事件の元被告人33人が神奈川県警の元特高警察官28人を「特別公務員暴行・傷害事件」として横浜地裁検事局に告訴した。告訴人の細川嘉六と広瀬健一の2人は元警視庁警部補の芦田と元同巡査の上田某の2人を傷害罪(刑法204条)、特別公務員暴行陵虐致傷罪(刑法196条)で告訴した。細川は「被告訴人ハ告訴人ヲ昭和一七年九月一六日及一七日頃世田谷署ニ於テ取調ニ当リ平手及ビ書物ヲ以テ頭部並ニ顔面ヲ殴打シ同時ニ土足ヲ以テ腰部ヲ蹴リ約一ケ月間歩行困難ヲ与ヘマシタ外、十ケ月ニ亘ル取調中或場合ニ於テハ食物並ニ必要ナ物品ノ差入ヲ中止シ老齢病弱ナ告訴人ノ生命ヲ危険ニ陥シ入レマシタ」と告訴状で述べている[5]。元神奈川県警の3人のみが特別公務員暴行傷害罪で起訴され、1952年4月24日に最高裁で実刑判決を受けたが、4月28日に発効したサンフランシスコ講和条約に伴う大赦で釈放され1日も服役していない。
著書[編集]
- 『日本共産主義運動史』(山本勝之助、有田滿穗著、世紀書房、1950年)
- 『日本共産党戦略戦術史』(日本新聞社、1962年)
- 『共産党罪悪史』(東洋政治経済研究所、1966年)
- 『共産党罪悪史』の著者紹介で著書に『最近における日共の戦略戦術』があるとしている。これは『最近における日共の基本的戦略戦術(1-8)』(日刊労働通信社編集・発行、1953-61年)のことであると思われる。
- しまねきよし他著『二十世紀の思想』(青木書店、1967年)は「現代史研究会による『日本共産党史(戦前)』(公安調査庁調査資料、もと特高警察官芦田辰治郎が中心。(後略))」と記載している[2]。『日本共産党史(戦前)』(片岡政治編)は1962年5月に公安調査庁が刊行し、同年11月に現代史研究会が復刻版を刊行した本である。
出典[編集]
- ↑ a b c 芦田辰治郎『共産党罪悪史』東洋政治経済研究所、1966年
- ↑ a b c しまねきよし、田村紀雄、後藤宏行、鶴見俊輔『二十世紀の思想』青木書店、1967年
- ↑ 芦田辰治郎「日本共産党の独立宣言」『軍事研究』第1巻第5号、1966年8月
- ↑ 官報 1943年07月07日
- ↑ a b 木村亨『横浜事件の真相――つくられた「泊会議」』筑摩書房、1982年
- ↑ 「特高――その陣容と人名」『季刊現代史』第7巻第7号、1976年6月
- ↑ 『官公庁総合事典』日本官界情報社、1956年
- ↑ 芦田辰治郎「日共幹部の人々」『警察時報』第13巻第10号、1958年10月
- ↑ 北川鉄夫「スパイは生きている――「信濃の夜明け」「オデッサ・ファイル」「ある映画監督の生涯」」『部落』第27巻第5号(通巻327号)、1975年5月