稲荷神社 (狭山市入間川)

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動

稲荷神社(いなりじんじゃ)は、埼玉県狭山市入間川4丁目にある神社。狭山市の「稲荷山」という地名は当社に由来する[1][2]

祭神[編集]

歴史[編集]

狭山市立中央児童館の南、稲荷山配水場の東側に位置する小社。もともとは現在の中央児童館付近にあり、そこから周囲は稲荷山と言われていたという[3]。1912年(大正元年)の陸軍特別大演習で入間川町(現・狭山市入間川)に行幸した大正天皇は稲荷山の野立所(現在の中央児童館付近)で大演習を統監した。これを記念して稲荷山付近を記念公園にすることが決まり[4]、稲荷神社は造園のため天王山(現在の中央公民館南の台地)に移転した[3]。1914年(大正3年)に稲荷山公園(現在の中央児童館・ユースプラザ・稲荷山配水場周辺)が開場し[4]、開場後に地名である稲荷山に稲荷神社がなくてはということで現在地に移転した[3][† 1]。当時の神社は茶店の人が管理していた[3]

1929年(昭和4年)頃火災により社殿を焼失した[3]。稲荷山公園は1933年(昭和8年)には行楽地として広く知られ、武蔵野鉄道(現・西武池袋線稲荷山公園駅も開設されたが[6]、次第に荒廃していき、神社はそのままになっていた[3][† 2]。1951年(昭和26年)になって現在の社殿が再建された[3]

境内[編集]

  • 本殿 - 木造、流造[3]
  • 覆殿 - 木造、切妻造[3]
  • 鳥居 - 石造[3]
  • 水盤 - 石造[3]

境内社[編集]

愛宕神社 - 石祠。当社が現在地に移転するよりも前からあったといわれる[3]

大鳥居[編集]

コンクリート造の大鳥居が児童館前にあった[3]。かつては朱塗りであった[8]。『写真が語る狭山のあゆみ』には1933年(昭和8年)と1988年(昭和63年)[9]、『狭山・入間の昭和』には1943年(昭和18年)に撮影された写真が掲載されている[10]

祭事[編集]

二月初午[3]。『入間川町誌』(1955年)によれば、入間川町(現・狭山市入間川)には当社を初め屋敷稲荷を含めると200社以上の稲荷神社があり、どこも三月の初午の日に稲荷講・初午祭りが行われている[11]

交通アクセス[編集]

所在地:狭山市入間川4丁目24番付近

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ただし『いなりやまの昔を紡ぐ』の「戦前の稲荷山公園のあらまし」によれば、戦前は現在とは違う場所にあり、隣にはお土産と軽食の店があったという[5]。「現在とは違う場所」が天王山を指すのか、稲荷山の現在地ではない場所を指すのかは判然としない。
  2. ただし『写真集明治大正昭和狭山』に掲載されている「昭和八年頃の稲荷神社」という写真には社殿が写っている[7]

出典[編集]

参考文献[編集]

  • 『狭山・入間の昭和 写真アルバム』 いき出版、2014年
  • 今立鉄雄栗原仲道編 『写真集明治大正昭和狭山 ふるさとの想い出305』 国書刊行会、1985年
  • 入間川町誌編纂委員会編 『入間川町誌』 入間川町誌編纂委員会、1955年
  • グループ・いなりやま編集 『いなりやまの昔を紡ぐ』 グループ・いなりやま、2005年
  • 狭山市 (2011年3月1日). “稲荷山稲荷神社”. 狭山市公式サイト. 2019年2月確認。
  • 狭山市編集 『狭山市史 地誌編』 狭山市、1989年
  • 狭山市教育委員会 『狭山市の社寺誌』 狭山市教育委員会、1984年
  • 高橋利三郎写真、今坂柳二、栗原忠治、高橋光昭監修 『写真が語る狭山のあゆみ 高橋利三郎写真集』 幹書房、2005年

外部リンク[編集]