今立鉄雄
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今立 鉄雄(今立 鐵雄、いまだて てつお、1917年6月17日[1] - )は、国際問題研究協会理事長。
横浜生まれ[2]。福井県出身[3]。1940年早稲田大学文学部国史学科卒[4]。1940年12月蒙疆サラチ13K1中隊に入隊[2]。陸軍歩兵軍曹として北支戦線で5年間54回の戦闘を経験。情報関係の軍務に従事[5]。乙種幹部候補生。終戦時は曹長。1945年12月復員[2]。1949年衆議院行政監察特別委員会調査員。徳田球一要請事件、海上オルグ事件、メーデー乱闘事件などを担当[1]。1954年3月退職[6]。1954年9月国際問題研究協会を結成、理事長[1][7]。1959年時点で鋼書房[3]。1965年時点で「建国記念日、二月十一日を推進する会」事務局長(事務局は今日の問題社内)[8]。1966年時点で日韓文化協会[5]。1970年時点で中央学院大学教授[1]。1973年時点で元中央学院大学教授、淡江文理学院大学教授、東村山市文化財専門委員会委員、徳蔵寺板碑保存会理事、東京史蹟めぐりの会会長、心理戦研究会会長[2]。後に日本文化大学助教授も務めた[9]。
『右翼事典』(1970年)によると、国際問題研究協会は「学生に対する指導と国際問題研究のため元陸軍中将飯村穣を講師として研究会を開催し、機関紙『国際問題ニュース』を発行。以後、同会は、旧軍人を含めて心理戦研究に発展した」[1]。今立鉄雄によると、今立は1951年に元陸軍大佐の矢部忠太から心理戦研究の重要さを示唆された。1956年に飯村穣と初対面した。1963年1月に国際問題研究協会内に心理戦研究会を作り、機関紙『心理戦研究』を発行、飯村の指導を受けた[10]。研究会は大学生の自衛隊体験入隊も行った[5][10]。
著書[編集]
単著[編集]
- 『日本しんぶん――日本人捕虜に対するソ連の政策』(鏡浦書房、1957年)
- 『日本のゲリラ――70年闘争の主役』(時事問題研究所、1969年)
- 『元弘の碑と徳蔵寺』(徳蔵寺板碑保存会、1970年)
- 『正福寺と国宝千体地蔵堂』(三恵出版貿易、1973年)
- 『河南作戦写真譜――楚河舗、龍門街、洛陽の戦い』(三恵出版貿易、1973年)
- 『東村山市野口徳蔵寺所蔵獣脚付蔵骨器について』(東村山市教育委員会[東村山市文化財叢書]、1973年)
- 『東村山市野口徳蔵寺所蔵獣脚付蔵骨器の出土及び搬入についての追跡調査』(東村山市教育委員会[東村山市文化財叢書]、1973年)
- 『久米川古戦場の遺蹟について』(東村山市教育委員会[東村山市文化財叢書]、1974年)
- 『収容所列島 ラーゲリの中の日本人たち』(二十一世紀書房、1974年)
共著[編集]
- 『中共の求めるもの――対日断交の謎』(浅野一郎共著、鋼書房、1959年)
編著[編集]
- 『共産国を揺るがした十冊の本』(土居明夫共編、今日の問題社、1960年)
- 『下野の板碑――下野板碑年表解説』(編、東京史蹟めぐりの会、1971年)
- 『下野の板碑――下野板碑年表解説』(編、真岡市立真岡公民館、1971年)
- 『滅びゆく史蹟(第1~8集)』(編著、1・2は大多和晃紀との共編著、東京史蹟めぐりの会、1971-1978年)
- 『二荒山神社考』(編集、雨宮義人著、三恵出版貿易、1973年)
- 『写真集明治大正昭和狭山 ふるさとの想い出305』(栗原仲道共編、国書刊行会、1985年)
出典[編集]
- ↑ a b c d e 社会問題研究会編『右翼事典――民族派の全貌』双葉社、1970年、215頁
- ↑ a b c d 今立鉄雄『河南作戦写真譜――楚河舗、龍門街、洛陽の戦い』三恵出版貿易、1973年
- ↑ a b 本山荻舟、寺下辰夫『美味の遍歴』鋼書房、1959年
- ↑ 浅野一郎、今立鉄雄『中共の求めるもの――対日断交の謎』鋼書房、1959年
- ↑ a b c 今立鉄雄「〈私の軍歴〉戦わずして勝を得る」『軍事研究』第1巻第7号、1966年10月
- ↑ 今立鉄雄『日本しんぶん――日本人捕虜に対するソ連の政策』鏡浦書房、1957年
- ↑ 『日本のゲリラ』(1969年)、『河南作戦写真譜』(1973年)、『写真集明治大正昭和狭山』(1985年)によれば、1953年国際問題研究協会理事長。
- ↑ 新名丈夫「「建国記念の日」のめざすもの」、『紀元節問題――「建国記念の日」制定はなにをめざすか』青木書店、1967年
- ↑ 『写真集明治大正昭和狭山』(1985年)によれば、中央学院大学教授、日本文化大学助教授、台湾省淡江文理学院大学客員教授、東村山市文化財専門委員などを歴任。
- ↑ a b 今立鉄雄「飯村穣先生と心理戦研究会」、飯村穣『兵術随想――日本の防衛を語る』今日の問題社、1966年