王宇
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王 宇(おう う、? - 3年)は、前漢末期の人物。字は長孫。王莽の嫡子(長男)。
略歴[編集]
王莽とその正妻の子。弟に王獲・王安・王臨・王興・王匡ら。子に王千・王寿・王吉・王宗・王世・王利らがいる。
王莽は平帝を中山王から皇帝に擁立する際、平帝の母の衛姫やその一族を長安に入れず、彼女を中山孝王后として中山に留めていた。しかし王宇は平帝が成長した後にこのことが禍根を残すと考え、衛氏を長安に入れようと考えた。そこで元始3年(3年)、王宇は学問の師である呉章、夫人の兄である呂寛と謀り、超常現象を捏造して迷信深い王莽を驚かせ、呉章が衛氏を長安に入れるようその現象を解釈することにした。呂寛が夜間に王莽の屋敷に血を浴びせようとしたが門番がそれに気づき、事件が発覚した。
王宇は王莽により逮捕されて獄に送られ、服毒自殺した。次男の王獲に続いて王莽が我が子を殺したのはこれが2人目であり、これも王莽が我が子を殺すことで周囲からの人気取りに利用した工作だったという。なお、王宇の計画に参画していたものもことごとく殺された。
王獲、王宇と2人の我が子を夫の王莽によって殺された正妻は、その悲しみのあまり失明して、病気がちになって後に死去している。また、王宇の息子の王宗も後に反乱の罪により王莽によって自殺させられている。