熊本城攻防戦
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熊本城攻防戦 | |
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戦争: 西南戦争 | |
年月日: 1877年2月19日 - 4月12日 | |
場所: 熊本・熊本城 | |
結果: 明治政府の勝利 | |
交戦勢力 | |
明治政府 | 私学校党 薩摩藩 |
指揮官 | |
谷干城 | 西郷隆盛 |
戦力 | |
約94000兵 | 約20000兵 |
損害 | |
? | ? |
熊本城攻防戦(くまもとじょうこうぼうせん)は、西南戦争で起きた戦闘の一つである。
概要[編集]
2月14日、薩摩の先陣が熊本県に入り、熊本城城主・谷干城少将は大山に「薩摩兵が熊本を越えようとするならば、武力で阻止する」と通達した。谷は3800人の兵士と600人の警察官を従えていた。守備隊には樺山資紀などの人物が配備されていた。しかし、熊本城の守備隊は九州出身者が多く、将校も鹿児島出身者が多かったため、忠誠心が疑われた。谷は脱走や離反の危険を顧みず、守勢に回ることを決意した。
2月19日、熊本城の守備隊が、熊本城に侵入しようとする薩摩軍に発砲し、戦闘が発生した。2月22日、薩摩軍の本隊が到着し、熊本城を攻撃した。乃木希典少佐代理は激戦の末に連隊旗を失い、皇軍は後退した。しかし、薩摩軍は城を奪還することはできず、徴兵制の非力さを知ることになった。2日間にわたる攻防の末、薩摩軍は城の周りの硬い地面に穴を開け、守備隊を飢餓えさせようとする包囲攻撃を行った。謀反が起こる直前の倉庫火災で、食料と弾薬の蓄えがなくなっていたため、守備隊は特に絶望的な状況に陥った。
町の北の峠を塞ぐために派遣された反乱軍の分隊は、まもなく救援軍の前衛部隊と遭遇した。数度の激突の後、2月26日に両軍は離脱した。
4月8日夜、熊本城の部隊が出撃し、薩摩の戦線に風穴を開け、必要な物資が届くようになった。4月12日、黒田清隆が率いる本隊と山川浩大将が熊本に到着し、劣勢に立たされた薩摩軍を追い払った。