柳河春三
柳河春三(やながわ しゅんさん,新暦:1832年3月27日-1870年3月21日,旧暦]天保3年2月25日- 明治3年2月20日)は日本の新聞・ジャーナリストの開祖である。日本人として最初の新聞中外新聞と、最初の雑誌『西洋雑誌』を発行した。
来歴[編集]
幼時[編集]
1832年3月27日(旧暦:天保3年2月25日)名古屋大和町に生まれる。父は西村武兵衛、母は游月の号があった[1]初めの名は「栗本辰助」であったが、父が西村姓となったために「西村良三」と改める。幼児から神童と言われた、3歳ころ負われて外出したところ、町の暖簾や看板の文字を見ては、帰ってからそれを紙に書いたという。天保四年、丹羽盤恒子に書を習う。
修業時代[編集]
砲術家上田帯刀に漢学を学んだのち、尾張藩医で日本本草学の開祖となった伊藤圭介のもとで蘭学を学ぶ。1856年(安政3年) 、江戸に出て「柳河春三」を名乗り、紀州藩に仕える。数か月後に長崎にでて、写真術を学ぶ。1857年(安政四年)、日本初の体系的西洋初等数学書『洋算用法』を著。す1859年(安政6年)、26歳で木村勢以と結婚する。写真術の知識をもとに慶応3年に『写真鏡図説』初編を著す[2]。1861年(文久元年)、長女田鶴が生まれる(29歳)。1863年(文久3年)、31歳のとき会訳社を組織し、回覧新聞を編集した。
新聞発行[編集]
1864年(元治元年1)、学識を認められて、幕府の開成所教授に迎えられる。開成所では職務として外国新聞を翻訳していた。天下の御直参格である開成所教授となったののは、数学・化学・物産学に通じていたため、紀州藩の推薦であるという。1867年には『西洋雑誌』を発刊する。1868年(慶応4年)には、開成所の頭取となる。頭取に就任する1ヵ月前に、日本人最初の新聞となる中外新聞を発行した。
晩年[編集]
明治維新後も引き続き開成学校に出仕し、1869年7月大学少博士に任ぜられたが、同年10月に免官となるが、大学校に出使し、翻訳督務を命じられる。1870年(明治3年)2月20日、学友の宇都宮三郎(蘭学系の化学者)が訪問したとき、今日は頗るよいから飯を食おうといい、昼食の鰻を食した後に、「あぁ、美味かった」といって、突然に喀血して急死した[2]。 享年39歳。1870年(明治3年)2月23日、真宗大谷派寺院の願龍寺(東京都台東区西浅草1丁目2-16)に埋葬する。墓に「柳川春蔭先生之墓」と刻まれる。
病気[編集]
結核を患っていたが病をきにせず過ごし、危篤とは誰も気づいていなかった。2月に民部省から翻訳を頼まれたが、緩々ならできるが急にはできないと断っている[1]。
追遠会[編集]
追遠会(追悼会)は、明治14年3月12日、芝公園紅葉館で行われた。発起人には、福沢諭吉、福地源一郎、杉亨二、西周、神田孝平、加藤弘之、津田真道、松本順、桂川甫周 、成島柳北など当時の名士が名を連ねている。