東山薫

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東山 薫(ひがしやま かおる、1949年6月[1] - 1977年5月10日)は、日本の学生活動家[2]三里塚芝山連合空港反対同盟の支援者[3]

大阪府貝塚市生まれ。1965年、大阪府立高津高校に入学。在学中、自治会長(生徒会長[2])を務め、1968年に佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争に高校生の単独デモを組織して参加した。1969年、東京都立大学法学部に入学。ノンセクトの活動家、同大学全共闘の一員として学園闘争、70年安保闘争に参加した。1970年に都立大を中退、トラック運転手をしながら共同体運動を実践する[1]

1971年2月の成田空港予定地の第一次強制代執行阻止闘争から、三里塚闘争に参加。以後6年間、タクシー運転手をしながら坂志岡団結小屋に常駐し、援農や救援活動に従事する。1977年5月8日、三里塚で岩山大鉄塔の撤去に抗議する緊急集会が開かれた際に反対派と機動隊が衝突[1][2]。午前11時頃に第一野戦病院援護班の東山は[2]、野戦病院前でスクラムを組んでいた時、頭部に機動隊が水平撃ちした催涙ガス弾の直撃を受け、2日後に意識不明のまま死亡した(東山事件[1]。享年27歳。反対同盟葬が行われ、三里塚に葬られた[2]

東山の両親は国と県を相手取り、約9400万円の損害賠償を求めて民事訴訟を起こした。千葉地裁は1985年に訴えを退けたが、控訴審では1990年に東京高裁が一審判決を破棄して東山の死因を機動隊が発射したガス弾が頭部を直撃したことによるものと推認し、約4000万円の賠償を県に対して命じた。1996年に最高裁が県側の上告を棄却したことにより、控訴審の判決が確定した[3]。また両親は当時の警察庁長官や千葉県警本部長らを特別公務員暴行陵虐罪致死、殺人罪の容疑で別途刑事告訴していたが、国側は東山の死因をデモ隊の投石によるものと主張し、鑑定の意見は分かれ、不起訴処分となった[3][4]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 『蜂起には至らず』198、304-306頁
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 板橋真澄「東山薫」『戦後革命運動事典』242頁
  3. 3.0 3.1 3.2 東山事件 コトバンク
  4. 『蜂起には至らず』308-309頁

参考文献[編集]

  • 小嵐九八郎『蜂起には至らず――新左翼死人列伝』講談社(講談社文庫)、2007年
  • 戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年