東京物理学校

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東京物理学校(とうきょうぶつりがっこう)は、1881年(明治14年)に東京府に設立された、私立の物理学校である。現在の東京理科大学の前身となった学校である。

経緯[編集]

寺尾寿東京大学(旧帝国大学)理学部物理学科の卒業生19名ほか2名により私塾の「東京物理学講習所」として、東京市麹町区飯田町四丁目1番地の九段坂下に設立された。校舎は最初は自前ではなく、幼児のための私立椎松学校の校舎を使用し、空いた夜の時間を利用していた。平均年齢25歳の若き理学士たちは「理学の普及が国運発展の基」という理念を掲げ、仕事の傍ら無給で生徒の指導にあたった。しかし教材は貴重な洋書と机のみであった。 東京物理学講習所の開学届は次の通りである[1]

私立夜学校設立御届
一位置  	麹町区飯田町四丁目壱番地稚松学校内
一校名  	東京物理学講習所
一課目  	物理学(重力学、音学、視学、熱学、電気学)ヲ講習ス但シ毎夕七時半ヨリ九時迄トス
一教員履歴	左ノ教員ハ曾テ東京大学理学部ニ於テ物理学ヲ講究シ明治十一、二、三年ノ三期ニ卒業シ理学士ノ学位ヲ得タルモノナリ
滋賀県士族 高野瀬宗則 東京府士族 和田雄治 山口県士族 中村精男 東京府士族 信谷定爾 秋田県士族 谷田部梅吉 
大分県士族 保田棟太 大阪府士族 小林有也 東京府平民 鮫島晋 東京府士族 千本福隆 長崎県士族 桐山篤三郎 
徳島県士族 三守守 滋賀県士族 沢野忠基 岡山県士族 赤木周行 東京府士族 三輪桓一郎
右来ル九月十九日ヨリ開校仕候間此段及御届候也
本郷元富士町二番地
校長 石川県士族 桜   井   房   記
東京府知事 松  田  道  之  殿
明治十四年九月十日付
麹町区長 平   松   時   厚

21人の設立当時の年齢は高野瀬宗則(30歳)、和田雄治(23歳)、中村精男(27歳)、信谷定爾(26歳)、谷田部梅吉(25歳)、 保田棟太(25歳)、小林有也(27歳)、鮫島晋(29歳)、桐山篤三郎(26歳)、 三守守(26歳)、沢野忠基(22歳)、 赤木周行(25歳)、三輪桓一郎(21歳)、加瀬代介(25歳)、桜井房記(30歳)、千本福隆(28歳)、 寺尾寿(27歳、初代校長)、豊田周衛(不詳)、名村程三(のち玉名程三)(21歳)、中村恭平(27歳)、 難波正(27歳)、信谷定爾(26歳) であった。

設立の趣旨は明治14年6月13日付けの郵便報知新聞の広告欄に掲載されている。「我が国の文運は急速に発展しているが、独り理学のみ発展は遅々としている。しかし、 官立大学以外に理学を教育する学校は少なく、これが理学の進歩を妨げている所以である。我々はこれを憂い、土・日曜を除く毎夕、実験を主とした物理の諸学科(重力、聴、光、熱、電気の5科目)を教育する学校を創立する。聴講を欲する者は申し込みあれ」と書かれている。 当初は、19時30分から1.5時間、物理学の講義をする学校であった。寺尾寿が初代校長に就任して学校としての形態は整った。この年に東京職工学校(東京工業大学の前身)が生徒募集を始めたが、当時において入学準備に対応できる機関は、東京物理学講習所だけであったから入学希望者が増えていった。月謝は、週2科目の聴講者は20銭、3科目以上の聴講者は40銭であった。当時の実験器具は、すべて当時一橋(現・学士会館)にあった東京大学理学部から夕刻借用し、授業の終了とともに返却する方法であった。

明治15年には学科課程を改定し、東京府知事あてにその認可願を提出している。その内容は、学科課程に前述した物理学5科目各週1.5時間のほか、数学を週15時間加えたこと、生徒は無試験で入学させ定員を約80名とすること、教員数は15名とし、すべて無給であること、授業料は物理学を修める者40銭、数学30銭、全科60銭とすることなどであった。申請者は東京物理学講習所長、秋田県士族、谷田部梅吉であった。 1882年(明治15年)、神田区今川小路3丁目9番地にあった100坪の土地に、初めて木造22坪(内教場12.5坪)の自前の校舎を建設した。 1883年(明治16年)に「東京物理学校」と改称し、学則を大幅に改正して学校として形態を整えた。修業年限は2年、「14歳以上にして略々算術を解し、且筆記に差し支えなきを要す」者ならば入学が許可された。入学金は1円(現在価値の2万円位)、月謝は、第1学年70銭、第2学年1円となった。 1884年(明治17年)9月15日、関東地区を襲った大暴風雨により校舎が倒壊してしまった。 1885年(明治18年)、財政的に窮地に陥ったが、21名の創立者のうち16名が結んだ「維持同盟」により救われた。内容は一人3-0円の寄付と週2回の無償講義、さらに教師が都合で講義に出られない時は理由を問わず25銭を払うという決まりであった。

1885年(明治18年)に初めての卒業生1名を社会に送り出した。第1回卒業式を開催し、計4名の卒業生が誕生したのは、明治21年7月22日になってからである。 1886年(明治19年)11月には神田小川町1番地の仏文会(後の法政大学)へ移転した。仏文会校舎は煉瓦造平屋建の旧跡で、その後明治21年にこれを2,200円で購入し、神楽坂に移転するまで20余年間にわたり校舎として使われた。 1888年(明治21年)、東京物理学校第1回卒業証書授与式を行う。入学した520名の内、卒業者は僅か4名であった。この頃から本校の実力主義が社会に評価され始める。 1904年(明治37年)春には卒業生総数は369名に達し、その内73%に当たる268名が教職へ進み、47名が技術者として実業界に入った。 1906年(明治39年)7月、物理学校は神楽坂二丁目24番地に木造新校舎を竣工し移転した。新校舎は木造2階建226坪(747m2)の白亜の瀟洒な建物で、北原白秋が「物理学校裏」と題する詩を著した。関東大震災に際して大きな被害はなかった。 1915年(大正4年)5月26日には「財団法人東京物理学校」が発足し、1917年(大正6年)3月27日、長年の念願の(専門学校令準拠)専門学校に昇格を果たした。5名の理事、2名の監事からなる理事会がその運営に当たることになった。 1930年(昭和5年)、天皇陛下より5千円が下賜され、50周年記念式典には内閣総理大臣・東京府知事などが臨席するなど当時の私学専門学校としては破格の待遇を受けた。 1935年(昭和10年)、戦時体制に即応した技術者を養成するべく、本科に応用理化学部を新設したところ、予想以上の応募があり、63坪の平屋仮校舎を急ぎ敷設する必要があった。そこで隣地の112坪を購入し、1937年10月、鉄筋校舎(現在の東京理科大学旧1号館校舎)を新築した。昭和6年に隣地135.66坪を購し入、同7年に120.76坪を、同8年には神楽坂1丁目3番地の宅地432.29坪を購入して敷地面積は延1,111.85坪に増加した。 1944年(昭和19年)、東京物理学校は学科を数学科、理化学科、応用物理学科、応用化学科の4学科に整理し、第一部入学定員400名、第二部定員250名を制定することとし、戦時中徴兵忌避を目的とした入学者を減らすよう文部省から勧告を受けたため、特色の一つでもあった無試験入学制度は廃止された。 1949年(昭和24年)に東京理科大学が文部省より新設認可されたため、1951年に東京物理学校として最後の卒業生を送り出し「東京物理学校」は廃止された。卒業生総数は11,483名であった。理学部のみの単科大学として開始した。

エピソード[編集]

  • 三代目校長中村恭平夏目漱石と親交が深く、『わが輩は猫である』の登場人物「苦沙弥先生」のモデルとされる[2]
  • 漱石の小説『坊つちやん』の主人公は、東京の物理学校を卒業している。小説では、物理学校の成績が後ろのほうから数えたほうが早いにもかかわらず3年で卒業したとされている[3]。山本誠副学長によれば、「当時、ストレートに3年で卒業できたのは全学生のわずか5%ほど」としており、3年で卒業した主人公は優秀であった。
  • 物理学校は、誰でもはいれるが、卒業するのが非常に難しい学校として有名で、当時において物理学校は落第学校とあだ名されるくらいであつた。明治18年から44年まで卒業率が10%を超えたのは2年だけである[4]
  • 1914年(大正3年)には寺尾寿ら一部設立者や学校幹部の間で早稲田大学への身売り(経営譲渡)が検討され、当時の高田早苗早大総長に打診されたが、他の設立者や同窓会から反対論が起こったため身売りは白紙となった。
  • 東京理科大学の創立記念日は5月4日である。大学設置認可がされてから学生募集を行ったために、その当時は各大学の入学式が大幅に遅れ昭和24年5月4日に入学式を挙行したことによる。なお東京物理学園記念日を6月14日とする。これは郵便報知新聞広告にちなんでいる。

歴代校長[編集]

参考文献[編集]

  1. 東京物理学校(1930)『東京物理学校五十年小史』東京物理学校
  2. 夏目漱石(2003)『吾輩は猫である』新潮社
  3. 夏目漱石(1954)『現代日本文学全集 11』筑摩書房
  4. 馬場 錬成(2013)『青年よ理学をめざせ-東京理科大学物語-』東京書籍