本多重次の墓

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本多重次の墓(ほんだしげつぐのはか)とは、茨城県取手市台宿2-13に存在する本多重次のことである。

概要[編集]

取手駅の東およそ1キロの地点に存在する墓である。名前の重次より通称の作左衛門で有名なため、本多作左衛門重次の墓と言われる場合もある。

本多重次は徳川家康の覇業を支えた忠臣のひとりで、その武勇と一徹さから「鬼作左」とまで称された。織田信長の死後、羽柴秀吉が家康を臣従させるために生母の大政所を家康のもとに人質として差し出した際、重次は大政所の屋敷の周囲に薪を積み上げて火をつけようとするなど、臣従するために上洛した家康の身に何かあれば大政所を殺そうとしたという。これを聞いた秀吉は激怒し、家康に対して重次を隠居させるように命じ、家康もやむなく重次を半ば放逐するように取手に移して捨扶持を与え、ここで重次は慶長2年(1597年)7月に死去している。

重次の墓は小さな五輪石塔で、茨城県の史跡として指定されている。

アクセス[編集]