有吉佐和子

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有吉佐和子(ありよし さわこ、1931年1月20日-1984年8月30日)は、日本の流行作家。

人物[編集]

和歌山市真砂町生まれ。東京女子大学短期大学部英語科卒。在学中から演劇評論家を目ざし、『演劇界』嘱託となる一方、同人誌『新思潮』に参加し、1955年「地唄」で文学界新人賞最終候補、同作で芥川賞候補となって文壇に出る。57年「白い川」で直木賞候補、62年長編『香華』で婦人公論読者賞・小説新潮賞を受賞、曽野綾子とともに「才女」と呼ばれ、流行作家となる。『紀ノ川』(1959)が初期の代表作。

1962年、興行師の神彰と結婚し女児を儲けた。有吉玉青である。純文学作家として認められたいと願ったが、『群像』編集長・大久保房男は有吉の文章を純文学の文章と認めず、同誌に掲載させなかった。のち大久保が退いてから『和宮様御留』を『群像』に連載している。

1967年、歴史小説『華岡青洲の妻』で女流文学賞を受賞、同作は増村保造監督で映画化され高い評価を得た。69-72年『出雲の阿国』を連載し、芸術選奨文部大臣賞,日本文学大賞を受賞。70年、短編「亀遊の死」を自ら脚色し「ふるあめりかに袖はぬらさじ」として戯曲のレパートリー作品とした。

1972年、老人問題を扱った『恍惚の人』がベストセラーになり、高峰秀子森繁久弥で映画化された。痴ほう老人を「恍惚の人」と名付けたのが斬新で、流行語にもなったが、文学としての評価は低かった。75年には『複合汚染』で公害問題を扱って話題になったが、有吉自身があちこち取材して回る私小説形式をとったためか、大久保房男は、有吉が初めて小説を書いたと評した。

ほかプエルトリコに渡航した経験を生かした『ぷえるとりこ日記』、黒人問題を扱った『非色』などがあり、78年には『和宮様御留』で毎日芸術賞、79年には『悪女について』を『週刊朝日』に連載した。82年の『開幕ベルは華やかに』では、推理小説仕立てながら、演劇界の内幕を描いた。

1984年6月に、フジテレビの「森田一義アワー 笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに出演した際、番組を乗っ取る事件があったが、これは番組側が要請した「やらせ」だったことが今では分かっているが、観客の有吉への反応が悪く、二か月後に急逝したことから長く議論の的となっていた[1]

脚注[編集]

  1. 橋本治が自著で友人として彼女の擁護をしていた。