新渡戸維民
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新渡戸 維民(にとべ これたみ、明和6年(1769年)8月 - 弘化2年9月7日(1845年10月7日))は、江戸時代中期から後期にかけての陸奥国盛岡藩士。新渡戸稲造の曾祖父に当たる。
生涯[編集]
現在の岩手県花巻市で生まれる。藩に対して花巻城の構造改革を唱えて対立したため、文政3年(1820年)12月に下北の川内村(現在のむつ市)に流罪となる。後に罪を許されて花巻に帰郷し、以後は文筆活動に専念した[1]。
『新渡戸稲造傅』によると「維民は南部藩(盛岡藩)きっての儒者であり、また兵学の大家であった」と評している。弘化2年(1845年)に76歳で死去。墓所は岩手県盛岡市の久昌寺。
妻は石清水貫衛門の娘・秀子。その間に娘1人のほか、跡取りの新渡戸傳、そしてもう1人の息子である常慶がいる[2]。