弦楽のためのレクイエム
弦楽のためのレクイエム(げんがくのためのれくいえむ、仏:Requiem pour orchestre à cordes )は、日本の作曲家武満徹が東京交響楽団の委嘱により1957年に作曲した弦楽合奏のための作品。武満徹の出世作、初期の代表作として広く国内外で知られている。作曲家の早坂文雄に献呈された。
初演[編集]
初演は1957年6月20日に上田仁指揮、東京交響楽団により行われた。当時の東響は、積極的に若手作曲家の作品の初演に取り組んでいた。当初はあまり芳しい評はなかったものの、1959年に、来日中のストラヴィンスキーがこの曲を耳にしたときに「絶賛した」[1]ことから評価が一転し、武満徹の名は一躍世界に知られる[2]ことになり、アメリカ楽壇との関わりがここから生まれることとなった。1960年に行われた第1回東京現代音楽祭でドイツ大使賞を受賞した。
構成[編集]
「レクイエム」と名づけられているが、通常の意味における「レクイエム」とは趣が異なる。入祭唱、キリエ、…という構成ではなく、三部形式のような形式をとっている。作品中には、劇団四季の舞台作品『せむしの聖女』(1956年)のために書いた劇音楽の旋律が使用されている。
総譜[編集]
肉筆の浄書スコアは、夫人の武満浅香の筆によって作成された[3]。
総譜は、当初音楽之友社から発売されていたにもかかわらず、武満の名声を聞きつけたサラベール出版社が出版権を買収して、現在はサラベール出版社が独占して出版している。この行動は当然日本国内から多数の批判を集めたものの、日本国内でもフランス音楽の幾多の海賊版が出回っていたため、これに対して文句が言えなかった事情もあった。当然ミスプリントだらけで校訂はなされていない。これは「版権を譲渡した楽譜の加筆訂正を認めない」というサラベール社の方針に拠るものである。
武満自身もこの楽譜の校訂を強く求めていたが、初演の際のヴァージョンが正しかったのか、自筆譜のcol legno+pizzicato[4]が正しかったのかは、正しい見解は得られていない。武満没後の2000年、川島素晴が全曲のミスプリントの校訂を音楽雑誌『エクスムジカ』誌上で、研究論文として発表した。ただし、著作権継承者で作曲者の妻である武満浅香の許可が下りておらず、この校訂版は出版されていない。
これに関しては、当時浅香夫人と校訂のコンタクトを取っていた川島が「弦楽のためのレクイエム」のヴァイオリンとピアノのための編曲版を演奏会にかけようとした際、許可が下りないうちに公示してしまったため両者の関係が悪化し、浅香夫人がサラベールおよびその代理店である日本ショットを通して、1回のみの上演許可を条件にこの川島の編曲を破棄させたという経緯がある。川島は「この作品がたった一本の旋律に和声が付属している」だけの構造であることを見抜き、『エクスムジカ[5]』誌で発表した。「たった一本の旋律に和声をつける」という方針はその後の「For Away」でも曲頭から見られ、弦楽四重奏のための「ア・ウェイ・ア・ローン」やピアノのための「雨の樹素描II」でも顕著なテクニックであることから、武満が原則的に作曲法を初期から一貫して変えなかったことの証明にもなっている。
研究[編集]
すでに学会では、武満はその当時から「アレグロが書けなくて、レントしか並べられなかった」ことが暴露されている[6]。武満の初期評価の低さは、この属性に起因するものであった。サラベールの校訂の遅延に業を煮やした武満は、1980年代に日本ショットへ出版社を移した。