島田正吾
島田正吾(しまだしょうご、1905年12月13日 - 2004年11月26日)は新国劇の俳優である。代表作は「瞼の母」「関の弥太っぺ」「一本刀土俵入り」。
本名「服部喜久太郎」。芸術選奨文部大臣賞、都民栄誉賞、芸術文化勲章シュバリエ章を受章。
概要[編集]
1905年12月13日、神奈川県横浜市保土ケ谷に生まれる。1911年、横浜の横浜市吉田尋常高等小学校(後の横浜市立吉田中学校、その後、横浜市立横浜吉田中学校)に入学する[1]。1913年、校庭の広い程谷町立程谷小学校(現横浜市立保土ケ谷小学校)に転校する。校舎の裏に小運動場があり、寺院の一部と山が続いている。1923年(大正12年)に明星商業学校を中退すると、紹介状を持参し、沢田正二郎を訪問し、新国劇団員となる。初舞台は3日目の「井伊大老の死」で志士を護送する駕籠かきの役であった。
1923年、浅草公園劇場に出演中、座員が円座になってすしを食べているところを賭博行為と誤解した警官とのトラブルが起き、劇団員約100名とともに浅草の象潟警察署に連行される(象潟事件)。丸の内の警視庁で関東大震災が起き、釈放される。1929年、新国劇主宰の沢田正二郎は新橋演舞場で公演中に中耳炎悪化のため倒れ、急死した。その後、後継者として一躍抜てきされる。対照的な芸風の辰巳柳太郎と協力して新国劇の看板スターとなった。辰巳の豪快な演技、立ち回り、島田の内面的な演技、両者の持ち味の異なる2人によって、「沢正の新国劇」と言われた。しかし両者が余りにも俳優として突出していため、後継者は育たなかったと言われている。
敗戦後の1947年(昭和22年)6月、新国劇創立30周年に、有楽座で「王将」を公演し、辰巳は坂田三吉を演じ大好評を受ける。宿敵関根名人に島田正吾が演じた。この公演は大ヒットし、1948年(昭和23年)・大映・伊藤大輔監督によって同名の映画となり、空前の大ヒットとなる。劇団創立70周年記念公演終了後の1987年(昭和62)9月に新国劇は解散したが、島田はその後も舞台・テレビで活躍した。
映画には1951年公開の『夏祭り三度笠』で初出演し、1952年公開の『武蔵と小次郎』と続く。1955年の『王将一代』(伊藤大輔監督)では辰巳柳太郎の坂田三吉に対する入江名人を演じる。1967年の『日本のいちばん長い日』(岡本喜八監督)では、森近衛師団長を演じた。 2002年8月、96歳で脳梗塞に倒れ、2004年11月26日に98歳で逝去。
受賞[編集]
- 1958年(昭和33年)、毎日演劇賞
- 1969年、紫綬褒章
- 1974年(昭和49年)、芸術選奨文部大臣賞
- 1976年(昭和51年)、勲4等旭日小綬賞
- 1982年(昭和57年)、長谷川伸賞
- 1992年(平成4年)「白野弁十郎」のパリ公演を行い、フランス政府から芸術文化勲章シュバリエ章を受章する。
- 1992年、菊池寛賞
- 2001年(平成13年)、松尾芸能賞、都民栄誉賞。
注[編集]
- ↑ 島田正吾(1984)『私の履歴書 文化人13』日本経済新聞社