少帝恭

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少帝 恭(しょうてい きょう、? - 紀元前184年)は、中国前漢の第3代皇帝(在位:紀元前187年 - 紀元前184年[1])。姓名は劉 恭(りゅう きょう)[1]

生涯[編集]

父は第2代皇帝の恵帝。母は後宮の美人と言われる。恵帝の生母の呂太后は自分の娘の魯元公主が生んだ娘、つまり外孫である張皇后を恵帝と娶せていたが、子は生まれなかった。これは呂太后が劉氏に呂氏の血をさらに強く入れるために行なった画策であったが、子が生まれないので張皇后に妊娠したふりをさせて子ができたように画策させた。恵帝には他の女性との間に男子が生まれていたので、その子が生まれると皇后出産と偽装して生母の美人は殺害したという[1]

恵帝が紀元前188年崩御すると、呂太后の後押しを受けて皇太子に立てられ[1]、紀元前187年に即位して皇帝になった。幼少のため、国政の実権は呂太后が全て掌握した。

しかし恭が誰かから生母が呂太后に殺されたことを聞いて激怒し、成人したら恨みを晴らしてやると言い出した。これを聞かされた呂太后は恭を幽閉して誰にも会わせないようにすると、恭は病気であると表向きは発表。さらに群臣に対して恭が重病であり、精神も正常ではないので国政はおろか祭祀を取り仕切ることもできないとして廃位を宣言した。群臣で呂太后に対抗できる者はなく、廃位は実行された。さらに呂太后は生かしておけば害になると考え、間もなく殺害した[1]

新しい皇帝にはこれも恵帝の子とされる少帝弘が呂太后により立てられた。

ただし、恭が恵帝の子かどうかも怪しまれている。

脚注[編集]

  1. a b c d e 河出書房新社『中国歴代皇帝人物事典』、P39

参考文献[編集]