小田急9000形電車

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小田急9000形電車(おだきゅう9000がたでんしゃ)は、かつて小田急に在籍していた一般形車両の1形式。地下鉄千代田線直通用に製造されたが、後に幅広い線区で使用された。

登場の経緯[編集]

小田急電鉄では旧5000形の4両固定編成の増備が続いていたが、千代田線直通が決まった時点で、地上線区と地下鉄のいずれの性能にも対応できる車両の用意が求められた。このような経緯で1972年に登場したのが本系列である。

本来ならば本系列は5000形の次のため「6000形」を名乗るべきだったが、営団6000系の試作車が既に存在し番号被りを避けるべく、かつ千代田線が「9号線」として計画されていたことから9000形に区分された。

構造[編集]

20m級の4ドア車体だが、前面は5000形と異なり営団6000系に引けを取らないデザインを求められたため、当時の小田急車と比較して一線を画すものとなり、一部からは「ガイコツ」というあだ名がついた。

内装はロングシートだが、座席の奥行きを5000形と比較して30mm拡大された。

主要機器に関しては地下鉄対応と地上線区の高速性能が求められたため極めて複雑精緻なものを採用し、界磁チョッパ制御でありながら、地下鉄向けは回生ブレーキ、地上では回生電圧の高さおよび回生失効を危惧して発電ブレーキを搭載した。

主電動機は110kWのものを採用したが、これは8M2Tで所要の性能が十分に確保できるためである。

ブレーキ方式は電磁直通ブレーキのHSC-DRを採用し、75km/h以下からのブレーキは回生、それ以上からのブレーキは発電とされ、回生失効時は自動的に発電制動に切り替わる。

沿革[編集]

登場当初は10両編成10本の計画で、1974年までにまず4連10本・6連8本が用意された。ここでダイヤが確定するまでは増備をいったん打ち切り、最終的に5運用を小田急が受け持つことが確定したため9010×4が付随車2両を1977年に組み込み、9409×6となったところで増備は完了し、計90両体制となった。

1978年から千代田線直通が始まり、1982年以降は箱根登山線への乗り入れも始まった。当初は常磐線乗り入れも検討されていたが9000形時代には最後まで実現しなかった。

1988年以降は1000形が入線するようになり、これにより1990年までに千代田線直通から撤退した。この頃から車体更新が始まり、6連は内装が暖色系、4連は寒色系と棲み分けがなされた。

地上線専属となったあと4連は全電動車であることを活かし、重連8両を組成して高加減速性能を活かし、新宿発着の各駅停車で主に使用された。一方6両編成は他の6両編成と共通で使用されていた。2000年には9001×4 - 9006×4の4連6本が片側の運転台を撤去され8両半固定編成となった。また、同様の事由で電気機関車全廃後、4連は牽引車として使用されることもあった。

このようにして地上線でも幅広く使用された本系列であり、鉄道ファンからは好まれた存在でもあったが、運転部門や整備部門からはむちゃくちゃ嫌われ[注 1]、5000形に先んじて淘汰が決定した。

そして2005年中に6連7本と4連8本の合計74両が廃車となり、最後まで残った9404×6、9407×6、9001×4の26両も2006年3月のダイヤ改正で営業運転を終えた。そして5月に9001×4と9407×6を組成した10両編成でさよなら運転を実施、直後に唐木田で行われたお別れイベントを最後に、7月をもって全廃された。

廃車後、デハ9001の1両のみが静態保存され、現在は旧3000形SE車をかつて保管していた車庫に収容されている。

関連項目[編集]

  • 名鉄7500系電車 - 他車と異なる機器類により運用上の問題が生じ、パノラマカーの中で最も早く全廃になった系列。


脚注[編集]

注釈[編集]

  1. 例えば、晩年に3000形6連と本系列4連を組成した編成はものすごく大暴れしたと言われており、運転士が相当嫌がっていたという情報もある。

出典[編集]