太田駿河守

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太田駿河守(おおたするがのかみ)は江戸時代の鋳物師である。

概要[編集]

太田駿河守を称する鋳物師に正義、正儀、政義がある。

太田駿河守正儀[編集]

正儀は神田鍋町(現千代田区神田鍛冶町3丁目)に居住した[1]とされる。『日本鋳工史稿』[2]には神田鍋町二丁目の在住となっている。

1708年から1834年まで28件の作例が知られている。将軍家霊廟前に奉納された銅燈籠を始めとして、多くの銅鐘や銅像を手がけており、江戸時代中期を代表する鋳物師の一人と推定される。

『日本鋳工史稿』(pp.122-124)によれば、太田駿河守正儀の作品は次の通りである。

  • 寛永5年年9月、品川寺 - 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵第一番)。
  • 寛永7年8月24日、浅草山谷東禅寺 - 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵第二番)
  • 正徳2年1月15日、相模国鎌倉大仏寺銅灯台両基
  • 正徳2年9月、太宗寺 - 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵第三番)
  • 正徳2年10月14日、芝増上寺文照院霊廟前銅灯台1基
  • 正徳4年9月、巣鴨真性寺 - 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵第四番)
  • 享保2年4月、深川寺町霊厳寺 - 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵第五番)
  • 1720年、永代寺 - 銅造地蔵菩薩坐像(江戸六地蔵第六番) 現存せず
  • 浅草唯念寺銅鐘。
    • 1680年に鋳造した鐘が1772年2月29日の火災(目黒行人坂火事)で毀損したため、1798年に再鋳した。唯念寺銅鐘は『日本鋳工史稿』に年号不明となっている。年代からすると太田駿河守正儀は再鋳を行ったのであろう。
  • 年号不明、相州浦賀町海岸山最福寺
  • 市川市の法華経寺銅造釈迦如来坐像大仏は背面の銘文より、江戸神田鍋町住の鋳物師・太田駿河守藤原正儀の作と判明している。通称「中山大仏」と言われる。日蓮宗大本山法華経寺境内に建立されている釈迦如来坐像である。1719年、法華経寺第59世日禅上人のとき鋳物師太田駿河守藤原正儀によって鋳造された。

太田駿河守久兵衛正義[編集]

正義と正儀とを混同している文献が多い。神田鍋町住となっている。活動年代と住所からすると、正義は正儀の子息と思われる。

『日本鋳工史稿』(p145)によれば、正義の作品は次の通り。

  • 享保17年11月、雑司ヶ谷威光山法明寺鐘。

太田駿河守政義[編集]

誓閑寺(新宿区喜久井町61)の銅造地蔵菩薩半跏像は1818年、鋳物師太田駿河守政義の作である。有形文化財(彫刻)となっている。 『日本鋳工史稿』(pp.160-124)によれば、太田駿河守久兵衛正義の後と書かれている。作品は次の通り。

  • 寛政8年9月、上野寛永寺中堂銅天水鉢
  • 寛政10年9月、深川本誓寺半鐘
  • 享和3年3月25日、小石川小日向本法寺銅洗盤
  • 宝暦4年3月、武州橘郡大師河原金剛山平間寺常香盤

リファレンス[編集]

  1. 石塚雄三(2017)「江戸六地蔵の鋳物師」史迹と美術 87巻2号、 pp.34-44,31
  2. 香取秀真(1914)『日本鋳工史稿』甲寅叢書刊行所