大山義年
大山 義年(おおやま よしとし、明治36年(1903年)8月2日 - 昭和52年(1977年)7月16日)は、日本の科学者。専門は応用化学[1]。
略歴[編集]
1903年[1]8月2日 、茨城県水戸市に生まれる[2]。麻布中学から旧制水戸高校へ進学し、東京大学工学部造兵科で学ぶ[3]。日清、日露戦争に出征し、海軍大佐を務めた後、少将で退役した父大山鷹之介の影響で工学部に入学したと言われている[3]。
1927年(昭和2年)東京大学卒業後、恩師のすすめで理化学研究所にて働く[2][4]。1年間の工作室での実習を経験後、大河内研究室に3年勤務する[2][4]。理化学研究所に籍はおいたまま[2]、1931年(昭和6年)に創設間もない台北帝国大学理農学部の助教授になる[5]。に赴任して粉体工学の研究を始め第一人者となる[2]。
1940年(昭和15年)に東京工業大学助教授(化学工学科)に就任[4]。1942年(昭和17年)『粉体混合の研究』により工学博士の学位取得(東京帝国大学)[4]。同年8月、日本で初めて出来た化学工学科[5]である東京工業大学化学工学科教授に就任する[4]。
1944年(昭和19年)東京帝国大学の第2工学部教授を兼任することとなる[4]。終戦前、東京工業大学化学工学の主任教授であった内田俊一が、疎開を兼ねて岩手県黒沢尻(現在は北上市)でアルミニウム製造に携わっていた[6]。その手伝いに、黒沢尻まで行くが元々弱かった胃が疎開先で悪化し1945年7月7日に東北大学の大学病院で手術をする事になった。2日後には仙台市内が空襲に襲われる。終戦は病床でむかえた[7]。
終戦後10月頃、大山は理化学研究所に顔を出せるまでに病が回復し、1945年12月より理化学研究所主任研究員となり大山研究室を主宰することになった[4]。 理化学研究所もGHQから財閥解体の指定を受ける[8]。理研解散後は後継会社である株式会社化学研究所でペニシリンの製造の工業化行う[9][2]。また、酸素製造の工業化や原子力燃料ウラン濃縮にも尽力する[2]。
その間、1947年(昭和22年)1月に化学機械協会副会長、1948年(昭和23年)4月に株式会社化学研究所主任研究員兼ペニシリン製造部長、1956年(昭和31年)5月に原子力委員会専門委員等を歴任する。 1962年(昭和37年)8月に東京工業大学学長に就任する。東京工業大学学長時代には理工学部単一の大学から複数の学部をもつ複数学部への改変を行う[10]。1965年(昭和41年)8月に東京工業大学学長退官し、同大学名誉教授となる[11]。 1974年(昭和49年)2月に日本粉体工業協会会長に就任。同年3月、筑波研究学園都市に設置された環境庁(現:環境省)国立公害研究所の所長に就任[11]。
1977年(昭和52年)5月原子力委員会会長に就任するも、同年7月16日、在任のまま死去する[11][2]。
業績[編集]
参考文献等[編集]
- 大高 利夫 『日本著者名・人名典拠録』1 あ〜く、日外アソシエーツ株式会社、2012年5月25日 発行、新訂増補 3rd、1108頁。ISBN 978-4-8169-2358-6。
- 岡部 昭彦 『科学者点描』 みすず書房、1989年9月30日 発行、1st。ISBN 4-622-03933-8。
- “みとの水脈(9) 大山義年(化学者)”. 水戸市 (2010年1月1日). 2016年10月15日確認。
- 大山義年 『化学工学の里程標』 大山義之、1978年7月16日 発行、1st。
- “理研について 沿革”. 理化学研究所 (2015年7月). 2016年10月15日確認。
- 鈴木光男 『ゲーム理論と共に生きて』 ミネルヴァ書房〈「自伝」my life my world〉、2013年3月20日 発行、1st。ISBN 978-4-623-06502-8。