吉村達次

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吉村 達次(よしむら たつじ、1916年12月24日 - 1966年1月21日)は、マルクス主義経済学者。京都大学経済学部教授。

経歴[編集]

京都市左京区北白川仕伏町の旧家に生まれる[1]。1934年京都府立第一中学校卒業。1937年旧制第六高等学校文科乙類卒業。京都帝国大学経済学部に入学[2]石川興二教授の指導を受ける。1939年頃より社会科学研究会の読書会に参加し、マルクスレーニン等の研究を行ったこと、学生の反戦運動に加わったことにより、1941年1月22日に治安維持法違反の疑いで逮捕された[1]。同年5月に起訴されたため、無期停学処分を受け[2]、翌年に懲役2年執行猶予3年の判決を受けた。1942年5月に復学し、同年9月卒業と同時に兵役に就き、翌年ラバウルに出征した。敗戦後、捕虜生活を送り、1946年5月に復員した[1]

1947年5月京都帝国大学大学院に入学(1948年5月まで)。1948年6月京都大学経済学部文部教官、1950年1月講師、1950年6月助教授[2]。この頃、京都勤労者教育協会幹事、京都大学職員組合(京大職組)書記長(1950年3月~1951年3月)を務め、1951年に民主主義科学者協会(民科)京都支部書記長となった[1]。国民的科学運動に学んで学生とともに企業の実態調査に入り、1953年頃に京都地方民族産業の調査活動をしたり、1954年にソ連科学アカデミーが刊行した『経済学教科書』の研究と普及の活動に参加したりした[1][3]。理論面では宇野弘蔵東京大学教授の「恐慌論」批判に取り組んだが、このような活動の中で健康を害し、1955年中頃から1957年1月まで著作活動を中断した[1]

1957年3月より1958年3月まで京大職組中央執行委員[2]。1961年頃より経済学方法論の研究に集中的に取り組み、宇野理論批判を開始した。哲学者の見田石介らとこの問題に関する研究会を1年間続けたり、雑誌『季刊経済』創刊号(1962年6月号)に「書評・宇野弘蔵著『経済学方法論』」を書いたりした[3]。1962年「恐慌論の研究」で経済学博士(京都大学)[4]。1963年以降、京都労働者学習協議会理事、民科京都支部経済部会責任者、日中友好協会会員を務めた[1]。1963年の日中経済学交流会の発足に木原正雄京大助教授とともに貢献[5]。1964年6月から7月にかけて中華人民共和国科学院の招請により[2]住谷悦治同志社大学総長、豊崎稔京大教授、小椋広勝立命館大学教授とともに京都経済学代表団の一員として訪中した[5]。第11回原水爆禁止世界大会国際会議日本代表団員、京都原水爆禁止科学者の会代表委員を務め、1965年11月には日本科学者会議の発起人となった[1]大阪外国語大学講師、立命館大学経済学部非常勤講師なども務めた[2]

1966年1月1日付で京都大学経済学部教授に就任したが[1]、同年1月21日にくも膜下出血のため49歳で死去した[2]。生前に『経済学方法論――宇野理論批判』という本を刊行しようとしていた。没後にそれとおぼしき草稿やメモが書庫から見つかり[3]林直道大阪市立大学教授が池上惇京大助教授らの協力を得て編集し、『経済学方法論――宇野理論批判』(雄渾社、1966年)として刊行された[6]

著書[編集]

  • 『恐慌論の研究――循環と変動の理論』(三一書房、1961年)
  • 『経済学方法論――宇野理論批判』(雄渾社、1966年、新装普及版1972年)

出典[編集]

  1. a b c d e f g h i 池上惇「故吉村達次先生略歴および業績についてPDF」『經濟論叢』第97巻第2号、1966年2月
  2. a b c d e f g 故吉村達次教授略歴・著作目録PDF」『經濟論叢』第97巻第2号、1966年2月
  3. a b c 林直道「故吉村達次氏の学問をふりかえってPDF」『經濟論叢』第97巻第2号、1966年2月
  4. CiNii 博士論文
  5. a b 松井清「吉村達次君の人柄をしのんでPDF」『經濟論叢』第97巻第2号、1966年2月
  6. 相沢秀一「吉村達次「経済学方法論」PDF」『立命館経済学』第15巻第3号、1967年1月