北条 顕朝(ほうじょう あきとも、? - 元弘3年/正慶2年(1333年)5月?)[1])は、鎌倉時代末期の北条家の一族[1]。北条時基の曾孫で名越流北条家出身である[1]。父は北条朝賢で次男[1]。母は不詳[1]。兄に時香[1]。通称は二郎[1]。
元弘3年/正慶2年(1333年)5月、新田義貞が鎌倉に攻め込んできた際、父や兄と共に戦死したとする説がある[1]。