仁木友梅
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仁木 友梅(にっき ゆうばい、生没年不詳)は、戦国時代の武将。伊賀国の守護大名。右京大夫。別名は義視(よしみ)、長政(ながまさ)。
生涯[編集]
出自は足利氏の分流である仁木氏。はじめ近江国に滞在していたが、国内の秩序の崩壊を危惧した伊賀国の豪族らに国主として招かれる。伊賀に移り住んでしばらく三田に滞在した後、仁木氏館(今日の伊賀上野城)の完成に伴ってそこに移り住んだ。その後しばらくは真面目に政治を行っていたが、擁立された身であることを忘れ豪族と領民を見下すようになった。そして豪族らは友梅の前で頭は下げても腹の底では彼を恨むようになったといわれる。そして、遂に豪族たちの堪忍袋の緒が切れる時がきた。長田庄の頭領・百田藤兵衛は一族伝来の仏像を大切に受け継いで誰にも見せないようにしていたが、ある日、友梅がそれを見せてほしいと頼み込んできた。藤兵衛は国主の願いに逆らうこともできず、友梅に貸し与え、友梅は3日後に返却すると約束した。しかし3日を過ぎても返却する気配はなく、藤兵衛の怒りは最高潮に達した。藤兵衛は隣村の大野木や朝屋の豪族・一族と協議し、友梅を攻め滅ぼす計画を企てた。他にも友梅の悪政に耐えかねた領民が次々に集まり、すぐに大軍となった。友梅は自ら手勢を率いて出陣し、合戦に及んだが惨敗。そのまま近江国へ逃れて隠棲したと伝わる。仁木氏一族はその後行方不明となり、消滅した。
参考文献[編集]
- 『伊乱記』