久間三千年
久間 三千年(くま みちとし、1938年1月9日 - 2008年10月28日)とは、1992年(平成4年)に2人の小学1年生女児を強姦して殺害した犯人。
福岡県山田市(現・嘉麻市)生まれ[1]。地元の県立高校定時制を中退[1]。1957年6月から山田市の職員として、運転手などを担当した[1]。1973年から事務管理をしていた[1]が、1977年に「突然依願退職」[1]した。その後は、退職金と株で儲けた金を元に小口の貸金業などをしていた時期もあった[2]が、その後は無職で[1]、1990年4月から1年間、団地の町内会長を務めていた[1]。判決文からは事件当時は母親と別世帯に暮らしていたようだが、逮捕時は妻・息子・母親の4人暮らし[1]。妻とは再婚と見られる(本人曰く、前妻には浮気されたとのこと[3])。
1992年2月20日、遅刻していた女児2人を車に連れ込み、強姦殺人をする(第2審判決で示されているように、死後レイプと見られる)。もっとも、いくら大人の男性でも小学1年生2人を同時に絞殺することは困難であるから、順序としては①A子ちゃんを大量の鼻血を出血させるほど(第1審判決)殴って動けなくさせて、②B子ちゃんを手で首を絞めて殺害し、③A子ちゃんも手で首を絞めて殺害し、④B子ちゃんを屍姦、⑤A子ちゃんを屍姦(A子ちゃんの膣内からB子ちゃんのものと見られる血液が検出されているため。ただし、③と④は逆かもしれない)、⑥両遺体を下半身裸のまま山中に遺棄、という書くのも憚れるほど残酷な経緯で殺害していると見られる。
くわえて、1988年にも久間の息子を訪ねてきた友人の姉(当時小学校1年生)が行方不明になる事件があり、久間が最終接触者である。こちらは未解決である。
2女児殺害については、往生際が悪く最後まで犯行を否認していたが、数々の証拠が存在していたため、判決は第一審から一貫して有罪・死刑判決となり、2008年に執行された。判決文を読めば彼が犯人であることは間違いないのだが、インチキジャーナリストが、事実を捏造・隠蔽・偏向して報道したため、ここまで残酷な事件を起こしておきながら、判決文すら読まない冤罪派がいまだに「久間三千年さん」と「さん」付けでたくさん味方してくれるという実例を作った。
詳しくは、飯塚事件にて。