ムーサー・アル=ハーディー

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ムーサー・アル=ハーディー762年 - 786年9月14日)は、アッバース朝の第4代カリフ(在位785年 - 786年)[1]

生涯[編集]

第3代カリフ・マフディーの子[1]。母は王妃でイエメン出身のベルベル人奴隷であったハイズラーン[1]。785年に父が死去したため跡を継ぐ。しかし若年のため、政権を掌握しようとする母のハイズラーンと不仲になる[1]。また亡父が遺言として次の後継者に同母弟のハールーン・アッ=ラシードを指名していたため、自分の息子を後継者にしたいハーディーはこの弟とも不仲だったという[1]。ハーディーは母や弟に権力を分担させることを拒んで対立するが、在位僅か2年で786年に死去した[1]。享年25。

急死のため、母親のハイズラーンによる毒殺とする説もある[1]

跡を弟のハールーン・アッ=ラシードが継いだ。

脚注[編集]

  1. a b c d e f g 小和田『世界帝王事典』P85

参考文献[編集]