マシュー・ペリー
マシュー・ペリー(Matthew Calbraith Perry、1794年4月10日 - 1858年3月4日)は、アメリカ合衆国海軍の提督である。約2世紀に渡り鎖国していた日本と貿易と外交関係を結ぶため、1853年(嘉永6年)にアメリカ合衆国海軍東インド艦隊を率いて来航した。
日本遠征前まで[編集]
クリストファー・レイモンド・ペリーとサラ・ウォレスとの間の3男として1794年にロードアイランド州サウスキングスタウン[1]で生まれた[2]。1809年、ペリーは15歳で海軍士官候補生の辞令を受け、最初は兄の指揮下でUSSリベンジ号に乗船した。
1812年からの米英戦争では、ペリーはジョン・ロジャース提督の下でUSS大統領号に乗船した。イギリス艦隊とのエリー湖の湖上戦ではUSSローレンス号とUSSナイアガラ号に乗船していた。マシュー・ペリーの兄のオリバー・ハザード・ペリー海軍大佐はナイアガラで戦闘に勝利した。兄は、エリー湖の戦いで米海軍の英雄となった。マシュー・ペリーはこの戦いから、貴重な経験を得た。
1839年、当時最新の蒸気船「フルトン」の初代艦長となる。蒸気船の優位性を明らかにしたことから、「蒸気船海軍の父(Father of the Steam Navy)」と言われる。1846年から1848年にかけての米墨戦争では、メキシコ湾艦隊副司令長官としてベラクルス包囲戦などで指揮をとった。
日本遠征[編集]
アメリカ合衆国大統領のミラード・フィルモアは、日本の開国と通商関係を結ぶことを意図し1851年に東インド艦隊司令官にマシュー・ペリーを任命した。準備期間中、ペリーは日本遠征の任務を遂行するため、ヨーロッパで刊行されていた日本論に関する図書から日本国に関すること、日本人の習慣など豊富な情報を収集していた。ペリー提督が司令官に任命された後、シーボルトはペリーの日本遠征と目的を察知し、遠征準備中のペリーに対し働きかけを行った。シーボルトは同遠征隊の一員として雇ってほしいと申し出た。ペリー提督は日本から追放された人物を連れて行くことは、自らに課せられた使命を脅かすと考え、これを拒否した[3]。遠征記には「最高権力者の推薦を退け、シーボルトを遠征隊の船に乗せることを拒絶し続けた」と書かれている<[4]。シーボルトは合衆国並びに日本遠征隊を非難し始めた。ペリーは「目的を達成のための利己主義的、虚栄心」を遺憾とした[3]。
大統領はアメリカ合衆国大統領の親書をペリーに携えさせた。1852年11月24日、ペリーは外交使節団を率い米東海岸のノーフォークを出航した。必要なら砲艦外交を用いることも許可されていた。1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、蒸気船「ミシシッピ」「サスケハナ」と帆船「サラトガ」「プリマス」の4隻の黒船が、浦賀沖に来航し、江戸幕府に開国を迫った。 1854年2月13日、ペリーは「ポーハタン」ら7隻、1600名を率いて再び浦賀沖に来航し、3月31日、日米和親条約を結び、下田と函館を開港させた。
伝記[編集]
マシュー・ペリーの最も完全な伝記はウィスコンシン大学ミルウォーキー校のジョン・H・シュレーダー教授による伝記である。
- John H. Schroeder(2018)"Matthew Calbraith Perry: Antebellum Sailor and Diplomat" ,Naval Inst Pr
関連項目[編集]
参照・注[編集]
- ↑ 日本語版Wikipediaの「ニューポート生まれ」は間違いである
- ↑ Commodore Matthew Calbraith PerryThe Fitzwilliam Museum
- ↑ a b 確執! シーボルトとペリー在NY日本国総領事館
- ↑ Matthew C. Perry , 木原悦子訳(1996)『ペリー提督日本遠征日記』小学館