ベッサラビア・ソビエト社会主義共和国
ベッサラビア・ソビエト社会主義共和国またはベッサラビアSSR(ルーマニア語:Republica Sovietică Socialistă Basarabeană, RSS Basarabeană、ロシア語: Бессарабская Советская Социалистическая Республика, Бессарабская ССР)とは、ベッサラビアにソビエト共和国を設立するため、ロシア・ソビエト共和国が後援して発足した革命委員会の一つである。ベッサラビアの名を冠するものの、実際にベッサラビアを支配することはほとんどできなかった。
政府は1919年の後半に解散したが、1924年にベッサラビア南部で発生したタタールブナリー蜂起の間、復活が議論された。
歴史[編集]
ロシア内戦のさなか、ロシア・ソビエト共和国は、ベッサラビア地方への勢力拡大を目論んでいた。そこで、1919年5月5日、オデッサで行われた第11回地域ボルシェビキ会議において、ベッサラビア地方での「臨時亡命労働者農民政府」設立が宣言された。同年5月11日には、現在のモルドバにあたるティラスポリを首都として、実際にベッサラビア・ソビエト社会主義共和国が発足した。
歴史的にベッサラビアとされてきた地域は、ロシア内戦の混乱の中1918年4月にルーマニアに併合されていた。そのため、当初、共和国の計画上の領土は、ベッサラビアからは離れたへルソン州のティラスポリ郡、ベルタ郡、オルゴポル郡に限定されていた。
この事実が示すように、ベッサラビア・ソビエト社会主義共和国は、当該地域を実際に統治する機関というよりは、ソビエト軍が将来的にベッサラビアを侵略することを暗示する政治的措置として存在していた。
共和国は、ベッサラビアの領土問題を政治的・軍事的に解決するため、当地に駐留していたフランス軍と交渉を行った。ところが、交渉の終結を待たず、デキーニン率いる白軍がオデッサに迫ってきた。
そのため1919年9月頃、ベッサラビア・ソビエト社会主義共和国は解散した。
続く1920年、第一次世界大戦の戦後処理としてパリ条約が結ばれ、ベッサラビアはルーマニアの領土として正式に決定された。しかしその際、ソビエトロシアが会議の場に出席していなかったことを根拠に、アメリカはこの条項に署名しなかった。
これが、ソ連のベッサラビア支配の野望を助長することとなった。1940年、ソビエトはついに武力侵攻を行い、当地を占領した。共和国解散から実に20年後のことであった。
ベッサラビアはモルダビア・ソビエト社会主義共和国としてソビエト連邦に組み込まれ、その状態が1991年の崩壊まで続いた。
政府高官[編集]
委員長…Ivan Krivorukov
内務人民委員…Alexander Krusser
土地耕作人民委員会…Boris Gumpert
人民戦争委員…Boris Gumpert
外務人民委員…Daniil Ridel/Mihail Gh. Bujor
人民委員会…Grigoriy Staryi
啓蒙人民委員会…G. Kasperovskiy
道路通信人民委員会…M. Palamarenko
労働人民委員会…V. Vorontsov
財政人民委員会…Zelman Ushan
人民司法委員…Aleksandr Aladzhalov
総務管理…I. Vizgerd
ソビエトウクライナ代表…Asen Khristev