ステパン・ミーニン

出典: 謎の百科事典もどき『エンペディア(Enpedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
1916年頃撮影

ステパン・ヴァシリエヴィチ ・ミーニンロシア語: Степан Васильевич Минин1888年 - 1927年)は、ロシア帝国の軍人。

生涯[編集]

ペルミ県(現在のペルミ州)エカテリンブルク地区レヴディンスキー工場に生まれる。

第一次世界大戦開戦時に兵役で入隊し、第195オロバイスキー歩兵連隊[1]に所属する。

左肩前部を爆弾の流れ弾で直撃され、腕を麻痺する程の重傷をした為、ゲオルギエフスキー十字章を4度授与される。[2]

1916年サーベルドイツ軍兵士2人を捕虜にし、負傷した連隊司令官を救出したとして、[[wp:ru:Георгиевская медаль т|ゲオルギエフスカヤメダル]]を2度授与される。[2]

明確な時期は不明だが、オーストリア・ハンガリー軍捕虜になり、1919年まで捕虜収容所の所長を務めた(この時、前述の授与された勲章を隠したり捨てようとしていた)[3]

解放された後はレヴディンスキー郷執行委員会の一員兼森林官を務め、1924年1月1日からレヴディンスキー村議会の一員、退職後は赤軍に勤務する[4]

1927年に亡くなり、彼の遺言により、遺体は市の墓地の4人のオーストリア人将校の隣に埋葬される。

脚注[編集]