オーギュスタン=ルイ・コーシー

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オーギュスタン=ルイ・コーシー(Augustin-Louis Cauchy、1789年8月21日 - 1857年5月23日)はフランスの数学者である。コーシーの積分定理コーシーの平均値の定理などで知られる。

概要[編集]

1789年8月21日、父ルイ・フランソワ・コーシー、母マリー=マデレーヌ・デセストとの間にフランスパリで生まれた。フランス革命の直後の時期であったため、ルイ王朝の役人であった父は逃げ回っていた。母は血なまぐさい噂の中、パリ郊外でひっそりとお産をした。新鮮な野菜や果物の欠乏していたため、親子とも栄養不良となり、ルイ・コーシーの成長に影響があり、後年まで病身の時期があった。

コーシーの父親はアンシャン・レジーム期には、パリの警官であったが、フランス革命により職を失った。ルイ・コーシーはパリ郊外の村アルクイユで父親から最初の教育を受けた。かなりのスパルタ教育であった。ロベスピエール殺害後は安全になったため、1794年にパリに戻った。1800年に役人時代の仕事が評価されて、官僚の仕事を得て、その後はすぐに昇進した。ナポレオン・ボナパルトが権力を掌握したとき、父は元老院書記官となり、ラプラスの部下となった。数学者として有名なラグランジュはコーシー一家と親しかった。

ラグランジュの勧めに従い、1802年エコール・サントラル・パンシオンに入学した。その時点のパリでは最上位から2番目の学校であった。若くて野心のあったコーシーはラテン語人文学に優れ、多くの賞を取った。にもかかわらず、コーシーは技術者に進む道を選択し、エコール・ポリテクニークを受験する準備を始めた。1805年、293人中2番で合格した。この学校に入った目的は、土木技術(シビル・エンジニアリング)とミリタリー・エンジニアリングの修得を目指して、科学技術の基礎と数学を学ぶためであった。

家族[編集]

コーシーは1818年、アロイズ・ド・ビュール(Aloise de Bure)と結婚した。間には二人の娘があった。妻は近親者としてコーシーの著作のほとんどを出版した。コーシーは約800編に及ぶ膨大な数の論文を執筆しており、論文集は『コーシー全集』として1882年から1974年に渡り刊行された。

ルイ・コーシーには二人の兄弟があった。弟のアレクサンドル・ローレント・コーシー (1792年3月12日–1857年3月30日)は1847年に高等裁判所の所長となり、1849年に最高裁判所の判事となった。ユージン・フランソワ・コーシー (1802年10月16日–1877年11月02日)は数冊の数学書を執筆して出版した。