アンスガル
聖アンスガル(英:Saint Ansgar、801年9月8日 - 865年2月8日)もしくはアンスカル(Anskar・Anschar)とは、ハンブルク・ブレーメンの司教。北欧への伝道で知られる。
生涯[編集]
801年、彼はアミアン近くのフランク人の貴族の家に生まれる。彼の母は彼が幼い時に死んだためコルビー修道院[1]に預けられ、そこで教育を受けた。
819年に彼を含む多数の修道士はユトラント半島を追放され、キリスト教に改宗したデンマークの王ハーラル・クラーグとともにユトラントに赴き、彼は2人の少年を教育しつつそこで2年間過ごした。822年にコルヴァイ修道院を創立するため彼は他の宣教師とともにヴェストハーレンに送られ、そこで教師として過ごした。829年にスウェーデンの国王ビョルン2世の要請を受け彼はスウェーデンに伝道のため赴きビルカで説教をした。
831年に彼は帰国し、そこで新設されたハンブルクとフェルデンの司教職に任じられ、また北欧三国への伝道も命じられた。同年11月に彼はローマに赴き同地で教皇グレゴリウス4世からパリウムを受け取っている。
840年のルートヴィヒ1世の死によってフランク王国が分裂し、その影響で彼はトルホウトにあった修道院の所有権を手放している。また845年にはデンマーク人がハンブルクを襲撃・略奪したために彼は歳入を全て失っている。支持者の多くが彼を見捨てたが東フランク王ルートヴィヒ2世は彼を支援し続け、彼はアンスガルをブレーメンの司教に任じた。
彼は新たに得たブレーメンの司教職と従来のハンブルクの司教職を統合しようと試みた。これはケルン大司教の反対に遭うも最終的に教皇ニコラウス1世によって864年に承認される。
これらの騒ぎに巻き込まれながらも彼は北欧への伝道使命を決して忘れなかった。彼はデンマークにおける内乱を解決したことで国王からシュレースヴィヒに教会を立てることを認められた。また848年から850年までスウェーデンに滞在しそこで布教活動を行った。また854年にも彼は再びスウェーデンに戻っている。
865年、彼に死去し、彼の遺体はブレーメンに埋葬された。
死後[編集]
彼の精力的な布教活動は後継者のリンベルトらに引き継がれ、最終的に北欧全土をキリスト教圏にすることに成功した。
またリンベルトはアンスガルの生涯をウィタ・アンスガリという伝記にまとめ、その中で彼の人生や服装などを述べている。
彼の業績を讃える像がハンブルク、コペンハーゲン、及びリーベにある。また月のクレーターの一つアンスガリウスは彼に因んで命名されている。
死後北欧への布教の業績が認められ列聖される。祝日は2月3日。