アナキスト革命連合

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アナ革連から転送)
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アナキスト革命連合(アナキストかくめいれんごう)は、日本のアナキスト組織。通称はアナ革連ARF[1]。機関紙は『自由と革命』[2]。「反帝国主義、反共産主義」を掲げた[3]

概要[編集]

1969年初夏に大阪で結成された。関西の大半のアナキストが従来の研究会やサークル的な小集団ではなく、一定の規模を持った行動的な組織を志向して結集した。構成員数は約500人、大阪外国語大学大阪教育大学大阪芸術大学関西大学関西学院大学花園大学大乗学生同盟)などに拠点を有した。下部組織にアナキスト高校生連合大阪浪人共闘会議社会革命左派があり、青年労働者組織の結成も目指していたが実現には至らなかった[1]

ゲバルト専用部隊を有し、武装蜂起準備委員会(プロレタリア軍団)[4]立命館大学のアナキスト・グループなどと衝突することもあったが、ブント赤軍派の一部とは交流があった[5]。通称は「アナキスト・ブント」「黒色ブント」、アナ革連に批判的なアナキストからは「アナルコ・ボルシェヴィキ」「アナシェヴィキ」と呼ばれた。当局はアナキストを現実以上に危険視していたため、機動隊に襲われて通常の街頭デモですら行うことが出来なかったという[1]

1969年12月1日から2日にかけての深夜に約50人の構成員が大阪芸術大学に突入、大学を占拠・封鎖した。これに対しヘリコプターや機動隊500人を含む約1000人の警察官が河内飛鳥から奈良当麻一帯に包囲網を敷き[1]、大規模な山狩りを行った[6]。この大阪芸大闘争で実力部隊が半減し、10・21闘争(10・21国際反戦デー)の評価をめぐり分裂、解体した。一部はアナキスト社会革命戦線を結成、アナ革連の東京支部は無政府共産主義者同盟となり、1970年6月14日の国会前デモでは約400人のアナキストの連合体列を指揮した[1]。『戦後革命運動事典』によれば、大阪芸大闘争の評価をめぐり分裂し、1970年に「自由と創造」派が結成された[2]

アナ革連(分裂後は無政府共産同)の活動家であった千坂恭二によれば、ミハイル・バクーニンの系譜に位置する組織である。そのため、プルードン - クロポトキンの系譜に位置する主流派の戦後アナキズム運動史ではほとんど触れられることがない。

脚注[編集]

  1. a b c d e 千坂恭二「アナキスト革命連合」『別冊歴史読本 2 反逆者とテロリストの群像』新人物往来社、2008年、108-111頁
  2. a b 山田正雄「アナキスト革命連合」戦後革命運動事典編集委員会編『戦後革命運動事典』新泉社、1985年、12頁
  3. 千坂恭二「日本は天孫降臨以来の革命国家である」『デルクイ』編集部編『デルクイ01』彩流社、2011年、151頁
  4. https://twitter.com/Chisaka_Kyoji/status/392710163078971392
  5. 千坂恭二『思想としてのファシズム――「大東亜戦争」と1968』彩流社、2015年、104-106頁
  6. 千坂恭二「右も左も革命戦線異状なし」『デルクイ』編集部編『デルクイ02』彩流社、2013年、202頁