わらじ騒動
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わらじ騒動(わらじそうどう、草鞋騒動)とは、江戸時代後期の文政5年7月1日(1822年8月17日)に発生した事件である。
概要[編集]
信濃国伊那郡高遠藩3万3000石の藩主は、文政3年(1820年)に代替わりして内藤頼寧が就任していた。この頃になると、どの藩でも藩財政の窮乏は表面化しており、頼寧にも藩財政再建のための藩政改革の必要性に迫られていた。
頼寧はまず、大坂加番という江戸幕府の役職就任を願い出た。これは出世が必ずしも目的ではなく、役職に就任することにより幕府から支払われる手当、いわゆる合力米1万4000石が目的だったと言われている。しかし、これだけで藩財政を再建できるわけもなく、頼寧は次に領民に対して厳しい取り立てを実施した。
高遠藩内の男には草鞋2足に付き、人頭税を支払うこと、女性には木綿一反に付き、家屋税を支払うことという増税を実施したのである。これはあくまで5年間という期限付きだったが、この人頭税や家屋税は正規の税金である年貢にさらに上乗せの形で課税されたものであり、領民は激怒した。そして高遠全域の百姓1万人が決起し、高遠城まで押し寄せて大騒動に発展したので、やむなく藩は方針の見直しに迫られたという。
その後、頼寧は新田開発、産業育成などに取り組んで藩財政再建を目指したが、ほとんど効果を得られずして終わっている。