1973年の日拓ホームフライヤーズのユニフォーム

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1973年の日拓ホームフライヤーズのユニフォーム1973年北海道日本ハムファイターズの前身・日拓ホームフライヤーズが同年の後期シーズンに採用した通称7種類のユニフォーム。シーズン終了後、親会社の日拓ホーム日本ハムに経営権を譲渡し日本ハムファイターズが誕生したため、同年限りで消滅したインパクトが強い短命ユニフォームである。

デザイン[編集]

これについては北海道日本ハムファイターズの項目7色のユニフォームを参照されたい。

概要[編集]

1973年、当時不動産経営で名を馳せた日拓ホームが、東映から球団経営権を譲渡され日拓ホームフライヤーズが誕生した。同年からパ・リーグは前後期の2シーズン制を導入しており、前期シーズンのユニフォームに至っては東映時代とほとんど同じで、ビジター用のロゴが「TOEI」から「NITTAKU HOME」に、左袖の東映の三角マークが日拓ホームのロゴマークに変わったのが目立つぐらいであった。

そして前期シーズンが終了すると、当時のオーナー・西村昭孝は低迷するパ・リーグ人気を盛り上げようとばかりに7種類のユニフォームを製作。日替わりで着用するという画期的な試みを行った。これが通称7種類のユニフォームである。

しかし、着用する当の選手や首脳陣らは戸惑いの色を隠せなかった。後期シーズンから指揮を執っていた当時の監督・土橋正幸は7種類のユニフォームの印象について「ダブルヘッダーの第1試合で勝利したのでゲンを担いで着続けようとしたら『別のを着てくれ』と言われてしまった」と当惑し、ルーキーだった新美敏は「7種類のうち1種類は着た覚えがない」と証言している。

7色のユニフォームで話題を振りまいた日拓であったが、成績の方は前・後期通算で5位に終わる。さらにシーズン終了後、日拓は球団経営から撤退し、日本ハムに売却。こうして、日拓ホームフライヤーズは11ヶ月、7種類のユニフォームに至ってはわずか3ヶ月という短い歴史の幕を下ろした。